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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

愛校心と愛社精神について考える件

よもやま話をしてみる 生きるということ

僕は官公庁、一般企業と数社で正社員として勤めた経験があるが、一度たりとも「愛社精神」を持ったことがない。

会社のためにプライヴェートを犠牲にするとか、その会社の成員としてプライドを持つなどというメンタリティが理解できないのだ。社歌を誇らしげに歌ったり、経営理念を暗誦して声高に唱えるなんてことは恥ずかしくてできない。いい大人が「自分は洗脳されて、楽しいです」と言ってるようなものだと感じてしまう。滅私奉公している自分に自己陶酔しているとさえ思えてしまう。

ただし、これらのことは会社社会においてはダメ人間である僕の考えなので参考にはならないかもしれない。

 

自分が所属している会社の理念に共鳴し、誇りを持って仕事をしている人は多い。僕はこれらの人たちを貶めるつもりは全くないし、それはそれで立派なことだと思っている。そんなメンタリティを持ち得ない僕の僻みなのかもしれない。

僕は自然と身に付いた愛社精神は素晴らしいと思うし、またそのように社員がひとりでに愛社精神を持つことができる会社は素晴らしいし強い会社だと思う。一方、まるで洗脳教育のような厳しい社員研修を重ねて、愛社精神を涵養するような会社は危ういと思う。いつかは化けの皮が剥がれるに違いない。会社は生活費を稼ぐ場に過ぎないのに、労働力の提供だけでなく、労働者の全人格的従属を求めるような会社には僕は絶対に勤めたくない。

 

次に「愛校心」について。

 

僕は「学校」そのものは好きではないし、昨今の「学校教」とでもいうべき風潮に違和感を覚えている。このブログで何度か書いているように、僕は不登校の経験がある。学校に対する不信感は拭えない。

ところが、僕には僕が通った高校、大学に対しては愛校心がある。僕の出身大学は結構スポーツが強いのだが、やはりその活躍ぶりが気になるし、関西一や日本一になるととても嬉しい。同じ高校、大学のOBの活躍を見るとやはり嬉しいし応援したくなる。親近感も覚える。

学校嫌いのはずの僕が、愛校心を持つことは一見矛盾する。

僕が通った高校はかなり自由な校風だったことがその理由だと考えられる。勉強を強要されなかったし(ただし、勉強をしないとついていけなくなる)、学校行事は学生主導であり、教師は基本的には口を出さないきまりとなっていた。

僕の通った大学も、他の大学に比べてかなりリベラルであった。僕の「居場所」は幾つもあって、充実した大学生活を送ることができた。

つまり、高校・大学ともに管理の度合いがかなり低かったことが、僕の学校嫌いを薄れさせて、さらに僕に愛校心を芽生えさせることになったのである。また高校・大学の同級生・先輩・後輩たちが僕と波長の合う人たちだったことも大きい。

高校・大学共に僕にとって大変居心地の良い場だったことが、僕の愛校心を育んだのだ。

 

僕が愛社精神を持てなかったこと、愛校心は持てたことについては、ただ単に自分にとって「居心地の良い場」かどうかだけの問題だったのかもしれない。

僕が高校・大学に対して愛校心を持てたのは運が良かったからだ。

 

僕はこれからもずっと愛校心を持ち続ける。

愛社精神は・・・別にどちらでもよい。

おそらくこれからも愛社精神を持つことはないだろう。

僕にとってはどのような会社も「居心地の良い場」ではないから。