希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自殺について考える件

先日、人づてに僕の小中学校のときの友人が自ら命を絶ったと聞いた。彼は両親が営んでいた商売を継いでいた。自殺の理由は詳しくは分からないが、経営不振が関係していると想像できる。チェーン店や大型量販店に個人経営店が圧迫されて久しい。時代の流れは無情である。

 

僕は自殺する人間が弱かったからだというある種の自己責任論には組しない。自殺という行為が絶対的な悪だとも考えていない。

自殺に至るには、本人の想像を絶する苦悩があったはずである。その苦悩に耐えられずに自ら命を絶つという行為に及んだことに対して誰もその人を責められないと思う。また、周囲の人たちが「なぜ止められなかったのか」「なぜ気付かなかったのか」と後悔することがあるが、それはある意味傲慢である。本人の苦悩はその本人にしか分からないものであり、他者がそれをすべて受け入れることは不可能だと思う。

周囲の人たちはその人の苦悩に寄り添うことしかできない。そのことによって自殺を防げるケースも多いことは事実ではある。

 

キリスト教圏では自殺は悪と考えられており、ある程度の抑止力になっている。日本では古来から自殺を悪しきものとして捉えられていなかった面がある。人口当たりの自殺率が高い背景には、日本の自殺に対する許容が広いことも関係しているのだろう。

 

ある人が自殺を企図しているとき(そう見えるとき)に周囲の人たちがそれを阻む有効な手立てはあるのだろうか。自殺することはいけない、命は大切だ、生きていれば良いことはある、という一般論的な説得では力が無い。本人もそのことは重々承知している。承知している上で自殺を考えているのだ。本人は深く絶望していることが多い。

僕は人はほんのささやかな希望さえあれば生きていけると考えている。

深い絶望に陥っている人には少しばかりの「希望」を見出すように、「希望」への気付きを与えるように寄り添うしか手立てはないように思う。自分がこの世に存在していても良いんだと、自分の居場所があるんだと、これらのことだけ感じられるようにすることだもいえる。

 

自分の命は、自分の自由に好き勝手にしても良いという考え方がある。この考え方が時には自殺という行為を正当化するために使われることがある。

果たしてこの「自由」は正しいものなのだろうか。

僕たちは自分の意志でこの世に生を受けたわけではない。ここに大きな意味があるように思う。

また、命は天からの贈り物という考え方もある。人の意志を超えたものだという考え方である。

これらの考え方からすると、命を自由に好きなようにしてもよいという、一見最もな考えの妥当性や普遍性は否定されることになる。

 

自殺という問題は個人の問題だけではなく、社会構造の問題も孕んでいる。生きづらい社会は自殺との親和性も高くなる。

 

僕たちにできることは、身近にいる絶望に陥り苦悩に満ちた人に寄り添うことしかできない。

しかし、微力ながら生きやすい社会(コミュニティでもよい)を作り上げるという姿勢も大切だと、僕は思う。