希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

夢や高い目標がなくても楽しく生きていける件

僕は子どもの頃から、取立ててなりたい職業がなかった。漠然と学者や研究者のような仕事に就けたらいいなという程度の考えはあったが決して強い思いではなかった。

僕が小中学生のときには、将来何になりたいかとか夢とかあまり訊ねられなかったように思う。高校・大学時代でも、自分のなりたい職業に向かって努力している人はごく一握りで大半は学生生活を楽しんで、適当に就職すれば良いという感じだった。これは僕の周囲がそうだったのか、社会の風潮がそうだったのかは定かではないが、今ほどキャリア教育がどうのこうの言われていなかったのは確かだ。

 

よく夢を持ち、高い目標を設定し、それに向かって努力邁進することが素晴らしいことだと言われる。夢や高い目標に向かって努力することによって成長ができて自己実現が図れるとも言われている。

確かにその通りである。

反論する余地は無いようにみえる。

 

しかし、僕のような意識の低い人間にとっては、夢や高い目標を持つこと自体が煩わしく感じられる。夢や高い目標が無ければ、生きている意味が無いのか、と反発したくなる。夢や目標が無い人は低レベルな人間なのかと突っかかりたくなる。そもそも、夢や高い目標を持ち努力している人こそレベルの高い人間であるというのはかなり傲慢な物言いである。

 

僕は夢を持つことや高い目標設定して努力することが良くないと言いたいのではない。

それはそれで立派なことだし、僕もできれば夢や高い目標を持って生きていきたいとも思う。しかし、僕のようにどうしても夢を持てなかった、高レベルの目標を持てなかった人間もいる。夢や高い目標を持つことを絶対的な善として、それらを強要することはいかがなものかと僕は言いたいのだ。

 

また、会社社会において経営者が夢や目標を高く持てと強調することがよくあるが、これにも違和感を覚える。

耳障りの良い言葉で社員を洗脳しているだけだと感じる。

結局は会社の利益に直結する範囲での夢や目標に過ぎず、会社に貢献しない個人の夢や目標は不要なのだとも感じられる。

会社が都合よく社員をこき使うための方便に過ぎない。

 

目の前にある仕事を確実にこなし、日常生活の中から喜びや楽しみを見出すことでも、十分に充実した生活を送ることができる。そのような生活を続けていくうちに、夢や目標らしきものが見つかることも多いと思う。

当初から高い目標を設定したりすると、無理が生じることもあるし、それが達成されなかったときに喪失感・寂寥感に襲われることもある。人生の途中で燃え尽きてしまっては元も子もない。

 

わずかばかりでも希望さえあれば、夢や目標が無くても楽しく生きていけると、僕は思う。