希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「普通」であることが評価される、しかし「普通」であることを強制されない社会が好ましいと思う件

僕は取り立てて才能があるわけでもないごく普通の人間である。俗物であるし、その俗物性を克服したいと考えている普通のどこにでもいるような人間である。

普通の人間だと思ってはいるが、サラリーマン社会に馴染めない面から見ると、会社社会の価値観からすると普通以下の存在だともいえる。

 

自己啓発系の著書やセミナーなどでは、普通であることはあたかも将来が危ういと喧伝され、自分磨きによって常に成長しなければならず、他者より抜きん出た存在になり自己実現ができると謳っている。

つまり、普通であることは悪なのだ。

普通であることは成長を望まない愚か者だというわけである。

多くの人たちはこのような妄言に惑わされて、自己実現に邁進し、地に足が着かない意識が高いだけの人になってしまうのである。自己啓発関係の有象無象の輩のカネ儲けの道具にされてしまう。

 

果たして「普通」であることがそんなにいけないことなのであろうか。

「普通」に仕事をして地道に生活を営むことが取るに足らないことなのだろうか。

 

確かに夢や高い目標に向かって突き進む生き方は素晴らしい。人々の感動を呼ぶことも多い。僕たちはそのような人たちの生き様を見聞きして、発奮材料にすることもある。しかし、当たり前のことだが、そのような人たちは運や才能に恵まれたほんの一握りの存在にすぎない。大多数の人たちはそれぞれの人たちなりの夢や希望を抱きながらも、それを果たせず変わりばえのない日々の生活を営み続けている。

僕は日々の生活に追われているような人たちこそがこの社会を支えていると思っている。

いや、事実そうなのだ。

ごく普通の人たちがいなければ、この社会は成り立たない。さらに言えば、社会の大部分を形成する普通の人たちこそが主人公なのだ。ごく一握りのヒーローは、普通の人たちが担ぐ神輿に乗っかっただけなのかもしれない。

「普通」であることを嘆くことはない。

「普通」であることは、十分に立派なことなのだ。

普通の人たちを見下すような、自称イケている人たちは哀れな、愚かな人なのだ。

 

ただ、「普通」であることを殊更に持ち上げすぎてもいけない。

ある特定の価値観をもって、何が「普通」で何がそうでないかを決め付けすぎてもいけない。

社会の中で一定数の人たちは「普通」であることから外れていることもあるからだ。奇人・変人といった種類の人たちだけではなく、何らかの理由で社会のレールから逸れた生き方をしている人たちも多く存在する。一般に「普通以下」と目される人たちのことだ。そういった人たちに対しても「普通の人たち」と同等の価値を認めることが大切である。

 

僕は普通の人であり続けたい。

また、それを踏まえた上で、自分なりの「色」を出せるような人になりたいと思っている。