希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

他人のミスに不寛容な人間にはなりたくない件

殊更人前で人のミスを叱責する者がいる。

時には叱責し、大声で罵倒することに陶酔するようなバカがいる。叱責される方にとってはたまったものではない。大概この手の輩は無能な者が多い。すぐに感情的になり、独善的であり、客観的な思考ができない視野が狭い無能な人間だ。自分の立場や役職等を自分の力だと錯覚し、その己の力を見せつけたいという邪な感情が透けて見える。

 

人は誰しもミスをするものだ。

完璧な人間なんて存在しない。

 

何らかのミスをしたとき、その本人はたいていミスしたことを分かっており、反省している。

本人がミスしたことを認識していないときは、それを指摘し注意することは当然に必要となる。一方、本人がミスを自覚しているときに、それを論って必要以上に叱責することが本人のためにならないことが多いように思う。

当たり前のことだが、人間は「感情」を持つ。感情的で必要以上の叱責は、それを受けた者はミスの内容よりも叱責された不快な感情が強く残るものだ。ましてや人前で叱責されれば、怒りや恨みがより強く残るおそれがある。

それでは意味がない。

ミスを咎めるのは、将来において同じような失敗を繰り返さないためのものである。

なぜそのようなミスをしたのか、そのミスはどのような方法で防げたのか、今後同様のミスをしないためにはいかなることに留意すればよいのか等を、具体的かつ客観的に指摘し、教え諭す態度が重要になる。いわゆる「できる上司」はこの態度が身に付いていると思う。

 

僕たちはついつい他人のミスに対して、それを許せず責めてしまう。人命に関わることや、会社の存亡に関わるようなミスについては悠長なことを言ってられないかもしれないが、大抵のミスはカバーできる程度のものである。

繰り返しになるが人は誰でもミスをするものであり、そのことを前提としていれば多少のミスにも寛容になれるはずである。

 

他人のミスに不寛容な人間は度量や器が小さいのである。

そのような人間は人の上に立つべきではない。

リーダーとしての資質が決定的に欠けている。

 

人と人との関わり合いにおいて、互いにミスをすることは当たり前だという暗黙の了解が存在し、ミスをしたときは互いに助け合い、助けられたことによって卑屈にならない、という社会(会社等の組織)では居心地の良さがあり、生きやすくなる。

 

他者のミスに寛容になるということは、自分自身の人間性を高めることにつながるものである、と僕は思う。