希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「正しい生き方」を追求するな、ただ生きろという件

このエントリーの表題にした言葉は、故青木雄二氏が宮崎学氏との共著『カネに勝て!ー続・土壇場の経済学』で述べていたものである。

僕はこの言葉は金言であると思っている。

 

「正しい生き方」とは、いわば世間が正しい、全うだとする生き方である。言い換えれば他人と横並びの均質な生き方である。

なるべく良いとされる大学を卒業して、正社員として雇用され、結婚し子どもを得て、マイホームを持つといったような生き方だ。少々ステレオタイプなものであるが、当たらずしも遠からずだろう。またバブル崩壊の頃まではこのような生き方をするのは半ば当然であり、多くの人たちが目指すべきものとされていた。いや、現在も根強く残る考え方であると思う。

 

この「正しい生き方」を選択すると、確かに上手くいっているときは安定し豊かな生活を送ることができる。経済成長している時や、高いレベルで安定している時期であれば、この正しい生き方を続けることは賢明だったかもしれない。

しかし日本社会がかつての経済的繁栄を享受することは最早ないだろう。総中流社会に戻ることはない(この総中流というのも幻想ではあるが)。

経済的格差は広がり続け、持てる者と持たざる者との二極分化はさらに進むだろう。

 

世間的に見映えの良い「正しい生き方」を追い求めても、その生き方を貫いて幸福になれるという保証はないし、その生き方ができるのは限られた人たちだけになるかもしれない。そもそも「正しい生き方」とは時代や社会状況によって変化する相対的なものにすぎない。

 

「正しい生き方」とは他者からの評価や他人の眼を極度に意識したものである。時として自分が本来求めていた生き方や、本来の自分の姿からかけ離れたものになっているケースもある。現在の生活を維持するためにやむを得ない場合も多いだろうとは思うが。

 

僕は「正しい生き方」を追求することが愚かで辞めるべきだと言いたいのではない。「正しい生き方」という幻想に縛られて身動きできなくなってはいないか、己の人生の選択の幅を狭めてはいないかと言いたいのだ。

 

実は僕は「正しい生き方」なんて存在しないと思っている。人それぞれの価値観や人生観があり、どのような生き方であれ、本人が納得していれば正しい生き方なのではないかと思う。

「正しい生き方」が存在し、社会の同調圧力によってそれを強いることは無意味なような気がする。また、そのプレッシャーが強い社会はとても生きづらい社会だとも思う。

 

人はただ生きれば良いのではないか。

人はただ生き延びれば良いのではないだろうか。

 

幾多の哀しみと怒り、喜び、諦めなどを自分の心に抱え込みながらも、飄々と生きていく。

 

どのような状況に陥っても、「生きる」ことにのみこだわり続ける人が、実は実りのある人生を送ることができる、と僕は思っている。