希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「市民の声」が常に正しく、それを反映させることがよいとは限らない件

政治談議になるとよく市民の声を聞け、市民の声を反映させろという言説がなされる。

これは「市民」が善であり、社会のマジョリティであるという前提での話だ。

 

そもそも「市民」とは誰のことなのか。

このテーマを突き詰めれば、一冊の本にしても足らないくらいだ。

僕の理解では「市民」とは共同体において納税・兵役・労役の義務を負い、共同体の正式な成員として運営の主体ともなる存在であると捉えている。

もっと分かりやすく具体的に表現すれば、定職を持ち、選挙権・被選挙権を有し、税金を納めて、社会に対して何らかの発言権・責任を持った人たちが市民である。

ただ現在の日本での用法は国民=市民とかなり広く捉えられている節もある。

 

実際に政策や世論等は市民の声がかなり反映されている。あまりにも市民の要望等に阿るとポピュリズムになる。

 

僕は「市民の声」が絶対的に善で正しいとは思えない。

「市民」は愚かではないが、公正で冷静で賢明だとは必ずしもいえないと思っている。

わが国では一斉にある方向に流されやすい特質があり、また個人主義を利己主義と履き違えている人たちも多い。公共の利益を尊重するという意識も薄いと思われる。

 

具体例を挙げていこう。

 

ゴミ処分施設や福祉施設(特に知的障害者精神障害者関連)を建設するとなると、近隣の住民の反対運動が起きるケースが多々ある。これらの施設は公共の利益に資するものであり、また市民の利益にもなるものであるはずである。

だが、近隣住民でも「意識の高い」人たちは、住環境が悪くなり、自分たちの権利が侵されると言い出すのだ。本音は不動産価値が下がることを恐れていたり、得体の知れない者が近くにいることが嫌なだけなのだ。それらの住民たちは施設自体の存在意義は認めている場合が多い。ただ自分たちの近くには作らないで欲しい、他の別の場所に作ってくれと思っているのだ。

これは利己主義の最たるものといえる。

 

確かにゴミ焼却場や処分場といった類の施設に反対する理由は分かる部分もある。異臭がするかもしれないし、交通量が増えて騒音が発生する可能性もある。

一方、福祉施設の場合は特段住環境を悪くするものではない。若干人の出入りが増える程度である。住民(市民)の無知と偏見によるものである。知的障害者精神障害者は何をしでかすか分からないという思い込みに捉われているにすぎない。

 

精神障害者に関連していうと、精神の病に罹っている人たちに対する「市民の声」は偏見に満ちている。

精神病歴があったり、精神病を患っている人が大きな事件を起こすと、彼ら彼女らをなぜ放置しておいたのか、精神に不調を来たしている人たちを精神病院に隔離収容すべきだとの「市民の声」が沸き上がる。これは煽情的な報道をするマスコミの責任もあるが、その一方的な報道を鵜呑みにするのもまた市民なのである。

精神の病に苦しんでいる本人や家族の苦悩や制度の不備は顧られない。ごく稀のレアケースに過ぎないことに過剰に反応し、精神障害者を社会から排除しようとする。

 

精神障害者に限らず、社会で敷かれたレールから一旦外れた人たちに対しても排除しようとする。

善良で常識的といわれる「市民の声」は、多くの人たちを傷付けて、社会で生きづらくさせていることがある。

社会のマイノリティの生きる場所を狭めていることもある。

 

僕たちは「市民の声」が必ずしも正しいとはいえないことを肝に銘じておく必要がある。

 

「市民の声」を金科玉条とする者たちには警戒しなければならない。