希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

阪神淡路大震災は過去のものとなりつつあるが、それでもそのことについて書いてみる件

阪神淡路大震災が発生して19年になる。

関西圏では1月17日が近づくと震災関連の報道がされるが、関東圏では皆無なのではないだろうか。

 

阪神淡路大震災が起きた当時、僕は神戸市内の市街地に住んでいた。モロに被害に遭ったバリバリの被災者である(住んでいたマンションは半壊だった)。

震災当日の早朝、僕は地響きのような轟音で目が覚めた。その瞬間に激しい揺れが襲った。僕は始めのうちは地震だと思わずに、北朝鮮がミサイル攻撃をしてきたのかと思った。それほど京阪神地域では大地震と無縁だと信じ込んでいたのだ。

 

何とか自分の部屋から脱出して外に出た。

そのときの街の風景や匂いは一生忘れることができない。

倒壊した多くの家屋・ビル、遠くの方では幾つもの場所で火の手が上がっている。ガス管が破裂したのだろう、ガスの臭いが充満していた。人々は呆然と破壊され尽くした街を見つめていた。

 

明るくなったので、再び自分の部屋に戻った。

その部屋の惨状を見て僕は愕然とした。テレビが元にあった場所から吹き飛んで部屋の端にある。本棚とタンスがぶつかり合って辛うじて支えあいながら立っている。その下は僕のベッドだ。まかり間違えば僕はタンスや本棚の下敷きになっていた。無傷で済んだことは、運が良かっただけなのだ。

当時、「日頃の行いが良かったから」助かったという物言いをする人たちがいた。これは犠牲者を冒涜する言葉である。犠牲になった人たちは普通に生活を送ってきた庶民である。日頃の行いなんて関係ない。ただ運が悪かっただけなのだ。

 

僕は近くの避難所になっている小学校に向かった。午後になっていたと思う。そこでようやく実家の両親と連絡がついた。当時は携帯電話が普及していなくて、何度も公衆電話からかけてようやく繋がった。

避難所には当初テレビがなくて、情報が全く入ってこなかった。避難している人が聞いているラジオだけが唯一の情報源だった。

僕のいた避難所には救援物資が回ってこなくて、僕は2日間食べ物を口にできなかった。

そして避難生活3日目に電車が大阪から西宮までの区間で復旧したとの情報が入り、実家に戻ることにした。そのことを隣にいて親しくなった人に告げると、その人は僕におにぎりを持たせてくれて、しかも使わなくなった自転車を僕にくれたのだ。この好意に僕は涙が出そうになった。見ず知らずの、しかももう二度と会わないかもしれない人間に救いの手を差し伸べてくれたのだ。

僕は正常な判断力がなかったのだろう、その人の連絡先を聞くことを失念してしまった。痛恨の極みである、と今も思っている。

 

避難所から西宮に向かうまでの道中は、さながら難民の群れの中を進んでいるようだった。道路に大阪への避難者が溢れていた。人が多すぎるために自転車に乗っていもなかなか進まない。道路に沿って倒壊した家屋が延々と続いている。自衛隊の隊員が必死の救助活動を行っている。

7、8時間歩き、自転車で進んだ後、僕は父の迎えの車に乗ることができた。

 

僕はこの大震災によって人生が大きく変わったように思う。

まず物欲が殆どなくなった。ブランド物や高価な品も一瞬で灰になり、ゴミになることを目の当たりにした。

自分の好きなように生きようと決めた。人はいつ死ぬか分からないことを身に染みて分かったので、悔いのないように生きねばと決心した。

そして自分は運が良くて生き延びたのだと思うようになった。自分は運の良い人間だと思い込むことによって、様々な困難にも立ち向かえるはずだと考えることにした。

 

震災の記憶は一生消えることはない。

 

毎年、1月17日にはひとりひっそりと手を合わせている。

震災で犠牲になった人たち、震災後に孤独死した人たちなどに思いを馳せて、僕は祈りを捧げている。