希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

勉強ができる人=優秀な人というのは本当なのかという件

僕が昔から抱いている素朴な疑問がある。

表題にしたが、勉強ができる人は本当に優秀なのか、という疑問である。

 

この話題については、多くの人が主観をもって自分の意見を表明する。よくある言説は、いい大学を出たからっといって、仕事ができるわけではないというもの。

これは粗い意見である。

では、仕事ができる人が人間として優れているのか、という話になる。それに難関大学出身の創業者や経営者は沢山いる。

 

ただ、資本主義の論理でいえば、利益を上げる人が優秀だということになり、ミもフタもない言い方をすれば、カネを稼ぐ人こそ優れた人間であることになる。これはこれでシンプルな考え方で、傍目にも分かりやすい。

ただ、カネにもならない研究に没頭したり、儲けの薄い仕事に情熱を傾ける人たちはどうなのか、という話になる。当然、このような人たちの中にも優れた人物が多く存在する。極端な話、仙人はどうなのかということだ。

 

次に多い言説。

難しい試験を突破してきたはずの官僚や弁護士・医師などエリートとされている人たちに不祥事が多発し、人間的にも問題がある人が多いというもの。不祥事については論外だが、人間的に問題があるという捉え方は、主観がかなり入っていると思う。パーソナリティと勉強ができるか否かは相関関係はない。

 

一つ言えることは、官僚や大企業のエリート社員などは、既存のシステムの中で力を発揮し、「平時」においてはかなり優秀な人たちであるということだ。組織内の力学に精通し、システムをうまく利用することに長けていて、組織の力を漸次発展させる段には、無類の強さを示す。官僚組織が典型例であろう。

しかし、何らかの危機に陥って、変革が求められるときには優秀といわれる人たち(勉強ができる人たち)に突破力があるかといえば疑問が残る。

また、本来はポテンシャルの高い人たちが、巨大組織の論理に絡めとられてバカになるということもある。

 

 

 

そもそも「優秀な人」という定義が難しい。

独力で何事かを為す人と、組織の中でパフォーマンスを示す人との間に優劣はつけられない。

ある組織では優秀と目されていても、他の組織ではそうではないということも多々ある。

 

僕は以前、他人に優秀と思われたいと足掻いた時期があった(以前のエントリでも少しふれた)。

その時に抱いていた「優秀な人」のイメージは、専門知識が豊かで問題解決能力があり、コミュニケーション能力が豊かで温厚篤実な人柄で・・といったものだった。僕の能力を遥かに超えたハードルを自分に課していたわけである。

 

優秀な人かどうかは、絶対的な基準などなく、あくまで相対的なものなのだ。勉強ができる人は「ある意味」優秀である、ということに過ぎない。仕事ができる人も同様である。

絶対的に人間として優秀な人など存在しないように思う。

 

「優秀な人」かどうかというのは、人間という不可思議な生き物のほんの一部分を切り取って判断しているだけなのかもしれない。

聖人君主然とした人が鬼畜の所業をなすこともあるように(その逆もある)、人を全面的に判断することは不可能なのではないだろうか。

 

 

他人から優秀な人と思われようが、そうでないと見られようが、どうでも良くなってきて、開き直ったのが今の僕である。

 

優秀でない人間の人生も満更ではない。