希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人生、時にはあきらめも必要なのかもという件

何度もこのブログに書いているが、僕は本当に貧乏である。今年の5月に正社員の職を放り出してからは、派遣社員として働いて食い繋いでいる。しかも、フルタイムではない。お先真っ暗、と考えても不思議ではない状況である。

 

しかし、元々楽観主義者なのか、お気楽なバカなのかは分からないが、全く今の状況を悲観していない。常に希望を持ち続けている。今の生活を楽しんでいる。

 

地方公務員として働いている時や自営の社労士の時の方が、常に不安で将来を悲観していたように思う。自分がこうあるべきだと考えていた状況と現実とのギャップにも苦しめられていた。

 

自分の能力や適性や器量などを顧みず、自分は一廉の人物だと思い込んでいたのだ。他人からは優秀な人物だと認められたかった。甚だしい勘違いであり、また思い上がっていたとしか言いようがない。今更ながらに恥ずかしい。

何事かをなしてこそ、実りある豊かな人生だと決め付けていたのだ。人生の落伍者にはなりたくない、という強迫観念に縛られていた。

 

5年程前に僕はキレてしまった。

何もかもがイヤになってしまったのだ。

僕は13年間続けてきた社労士事務所を廃業することにした。少しばかり借金があったので、返済のために働くことにした。顧問先だった福祉施設に1年間雇ってもらうことになった。

その後に実家に舞い戻ることになった。小金が貯まっていたので、1年間近くほぼ引きこもりの生活を送った。

 

そして、僕は開き直った。

もう無理するのはやめよう、好きなように生きていこうと。世間の目や他人の評価など気にしないでおこうと。

 

結婚して家庭を持つことなど考えないことにし、立身出世(死語かな)を考えないことにした。「あきらめ」の境地に達したのだ(いや、まだ境地とまでは至っていないか)。

人生の成功と考えられている物事をあきらめ、代わりに僕にとっての居心地のよさを追求することにした。ダメダメ人間なりに誠実に生きようと決めたのだ。

 

僕の生き方が正しいなんて絶対に思わない。人にもお勧めできない。

バリバリと働き、家庭を築き、社会貢献に勤しむような生き方をしたかった。全うな社会人になりたかった。

 

しかしながら、「あきらめ」たことの効用もある。ストレスを感じなくなった。他人と比較することも少なくなった(全く無くなったけではない。修行が足りないなぁ)。なぜか人生を前向きに考えられるようになった。少々のことでは動じなくなった、などなどである。

 

何かを「あきらめる」ことで、何かが新しく生まれることもある。

こうあるべきだとか、こうでなければならいといった束縛から解き放たれることもある。

 

時には、「あきらめ」も必要なのかもしれない。

ただし、希望は捨てずに。