希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

企業や役所の不祥事・不正などは「掟」に従っただけだという件

僕の好きな作家の内の一人に宮崎学氏がいる。

彼のデビュー作『突破者』を読んだときの衝撃は凄かった。その後に出された作品も傑作が多い。

 

その宮崎氏の作品群に共通して述べられていることは、アウトロー的な生き方、市民社会に対して疑いをもつこと、エスタブリッシュメントの欺瞞などであろう。僕のH.N「漂泊民」はアウトローであるかつての漂泊の民に思いを馳せて付けたものだ。

 

また宮崎氏は社会規範(社会での法や道徳)に縛られずに、「掟」に生きろと主張している。ただこの主張は主にアウトロー的な人生を歩んでいる人々に向けてのものであり、みんな法律なんか破ってしまえという暴論ではない。また「掟」に従って己を律することが大切なのだとも読み取れる。

 

さて、この「掟」という言葉、もう死語なんじゃないかとか時代錯誤も甚だしいと思う人も多いだろう。

ところがどっこい、この「掟」は現代社会において未だにどっしりと根付いているのである。

 

ホテルや百貨店の食材の偽装問題がここ数日世間を賑わしている。こんなことは今に始まったことではないし、企業や役所の不祥事や不正、それらを隠匿する行為は枚挙に遑がない。

 

世の人はこう思うだろう。

「なぜ組織内で不正を糾す声を挙げないのだろう」「内部告発という手段もあるではないか」と。確かに正しい考えだ。市民社会では、社会規範に従い、己の良識に基づく行為をなすことが絶対的に正しい。

しかしながら、そう言いたがる人は、もし自分がそのような立場になったらどのような行動を取るのだろうか?

半沢直樹のような行動を取れるだろうか。

 

組織の不正や不祥事を見て見ぬふりをする行為、隠匿する行為は、ただその組織の掟に従っただけのことなのだ。この場合、掟の方が市民社会のルールより優先されるのだ。

 

サラリーマン社会にも多くの掟がある。上司の命令には己の意に反しても従わなければならず、何よりも仕事を優先する生活をしなければならない。会社の不利益になるような行為も厳禁だ。半沢直樹が多くの支持を得たのも、この掟に縛られた人々が喝采を送ったからである。「掟破り」の行為は時としてドラマを生む。掟破りは面白い。掟破りをメインテーマとしたエンターティメント作品は多い。

 

僕は何も「掟」に縛られて不正に手を染めた人たちを責めるつもりでこのエントリーを書いているのではない。

僕もかつて勤め人のときに、不正を目にしたことがある。そのとき僕は見て見ぬふりをした。とても不正を糾したり、上層部に訴えることなんてできなかった。自己弁護をするようだが、それが普通なのではないか。

もし僕が内部告発でもすれば、その組織にはいられなくなるだろう。組織の裏切り者に他ならないからだ。上層部に訴えたとしても、逆に僕の方が組織から抹殺されかねない。ことほど左様に「掟」のもつパワーは計り知れないのだ。

 

僕はこの「掟」という閉ざされた社会のみで通用するルールの存在を肯定する。確かにネガティヴな面もあるが、「掟」さえ守っていればその組織で安住できるし、居場所を確保できる。もし今従っている掟が嫌なら、その組織から抜ければよい。掟に従って市民社会のルールを破れば、甘んじてその罰を受けるという覚悟が必要だが。

 

ある組織の「掟」が市民社会のルールから逸脱している場合でも、その事実のみをもって社会から排除することがあってはならないと思う。社会のルールに触れた個別のケースによって罰すればよいのであって、「掟」そのものを危険視し、葬り去ろうという社会は不寛容な生きにくい社会である。

現在国家権力やエスタブリッシュメントは、特異な「掟」を認めない傾向にある。表面上は社会防衛や治安の安定を謳っているが、本音はエスタブリッシュメントに都合の良い「掟」を浸透させ、自分たちの都合の良い社会を作り延命させるためである。これはファシズムに繋がりかねない。