希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

ブラック企業が存在し続けるのは、それを手助けする輩がいるからだという件

ブラック企業」という言葉が浸透し、マスコミ等に取り上げられる機会も増えてきた。ブラック企業の非道さを追及する先が経営者(経営陣)に向くのは当然のことである。しかしながら、経営者のみにその責を負わせて、それでお終い、とするだけでよいのだろうか。

 

確かにある企業がブラック化する要因は、経営者の姿勢によることは多々あるだろう。しかし、ブラック企業であり続けるためには、それに加担する社員が存在することを忘れてはならない。

ブラック企業について語られるときに、よく経営者=悪、社員=可愛そうな被害者と図式化される。ブラックな職場で心身を病み、退職を余儀なくされた事例が多く取り上げられるからであろう。

 

果たしてブラック企業に勤める社員がすべて極限まで忍耐を強いられる可哀相な被害者なのだろうか。僕は違うと思う。

 

零細企業なら経営者は末端の社員にまで目が行き届くので、ブラックな労働条件を強いるのは可能であろう。しかし、ある一定規模以上の会社ともなればそうはいかない。

 

 

ブラック企業を支える社員たちは、何も経営者に媚びているからだとか、経営者が怖いだからとか、会社にしがみつきたいからなどという(ある意味で被害者の側面がある)理由だけで加担しているわけではない。このような理由ならまだ救いがある。

 

ブラック企業の中で生き生きと働ことができる人々が一定数存在する。その人たちはブラックな環境に素晴らしく適応し、その価値観を他人に押し付ける。その行為が悪意によるものもあれば、善意に基づくものもある。

こういった人々がブラック企業の存続に一役買っている。ブラック企業の再生産機能を担っている。

 

ただし、この手の人たちが特別な人間で、それこそブラックな人だというわけではないのだろう。

 

終身雇用・年功序列型の会社では、正社員としての身分保障を守る見返りとして会社の命令は絶対に服従することを求めた。サービス残業を伴う長時間労働・遠隔地への転勤・単身赴任等々である。「社畜」と呼ばれる社員たちが大量に生み出されることになった。

 

ブラック企業では、会社の命令には絶対服従という面は残し、身分保障はなおざりにした。かつての日本型企業の鬼っ子という存在がブラック企業なのである。

 

上述のブラック企業に加担する社員たちは、かつての日本企業における雇用慣例の幻想を未だに引きずっているのかもしれない。