希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

生きづらさを抱えている人たちは、どこでどのように自分の居場所を見つければ良いのかという件

先ほど村上春樹の『約束された場所で』を読了した。

10数年前に読んだものを再読したわけであるが、内容を殆ど覚えていなかったので新鮮な気持ちで読み進めていくことができた。

月日の経つのは早いもので、あのオウム狂騒曲から20年近くが経過し、事件の記憶がかなり風化しているように思われる。この作品はオウムの信者・元信者にインタビューしたもので、オウムという集団の内情を知る手がかりとなるものである。

ここに登場するインタビュイーたちのすべてが社会に疑問を持ち、社会の中で居づらさを感じていた。

 

オウムに代表されるようなカルトに走る人たちは、多かれ少なかれこの社会に居場所のなさを感じ、自分を受け入れてくれる場所、自分が心穏やかに居続けられる場所を求め続けている。

 

生きづらさを抱えている人たちを受け入れる場所があまりにも少ない社会、というのが現在の日本という国だと思う。

生きることとはどういうことかという根源的な意味を問うたり、死そして愛について考えたり、物事を深く追究すればするほど、現実社会との折り合いに苦悩する。大多数の人たちは妥協しあるいは深く考えることを放棄して社会との折り合いをつけている。それが「大人」になること「社会人」になることなのだ。

 

生きづらさを抱えている人たちはどこへ向かえばいいのだろうか?

自分たちの「居場所」をどのようにして確保すればいいのだろうか?

 

その答えはあるようでないものだし、ないようであるかもしれない。

 

その「居場所」がそこに集う人たちにとって心地好いものであるならば、どのような動機で創られたものであれ、どのような経緯で創られたものであれ構わないのではないかと思う。

例えばカルトであっても良いのではなかろか。ただし、社会に牙を剥いてくるものを除いてだが。

あるいはビジネス目的でつくられたものであっても、法外な費用を徴収するものでなければ、それも良しとするほかない。

もちろんSNSやネットを媒介してのものもOKだ。

 

多様な価値観を認め、各々の生き方を認め合う居場所があれば、たとえ職場や学校、家庭などで居づらくても、生きづらさが軽減される。

 

地域コミュニティが崩壊に瀕している現在、意図的・人為的にコミュニティづくりをし続けなければならない社会になってきているように思う。

 

でも、悲観することはない。きっと現在や未来の人たちのニーズに合った新しい形をしたコミュニティが次々と生まれてくるはずだから。