生きるということ
僕はビンボー生活を長く続けている。 カネのありがたみは人一倍分かっているつもりだ。 でも、目先のカネのために魂を売り渡すような真似だけはしたくない、と常々思っている。 貨幣・通貨とは効率よく商品やサービスを手にするために作られた交換手段のひと…
就活の際にあるいはそこから先の仕事をしていくうえで「コミュニケーション能力」が必要不可欠だとされている。 僕もかつてはこの言説を信じ込んでいた。 そしてコミュニケーション能力を高めるために試行錯誤を繰り返していた。 しかし、もともとがひねくれ…
僕は若い頃、死への恐怖と同程度に老いへの恐怖心があった。 歳をとったら身体のあちらこちらにガタが来る、思考力が衰える、頑固で保守的になる、瑞々しい感性が失われる等々と思っていたのだ。これらの懸念事項は半分は当たっていて半分は外れているような…
学ぶことと「勉強」は完全に同一なものではない。 勉強にはどうしても強制というニュアンスがつきまとう。大雑把に言えば、楽しんでやるのが学ぶことで、いやいやながらもこなすのが勉強である。 僕は子供のころ、勉強が嫌いだった(今でも嫌いだ)。中学校ま…
新しいビジネスとしてAIによって人間の信用度を測り、そのデータを企業に売るというものがあるらしい。この話を聞いて僕は暗澹たる気持ちとなった。 そんなに人間を格付けしたいのか、選別したいのかと。 クレジットカードや消費者金融の会社が対象者の信用…
成長や自己実現という言葉に踊らされ、背伸びすることを強いられる社会は窮屈だと感じる。それらは経済成長に資する生き方をせよ、と急き立てられているような感じもする。身の丈に合った生き方を志向することは間違ってはいない。 初出 2018/6/14 成長や自…
人はそれぞれ個性があり多種多様である。 のっけから当たり前のことを書いてしまった。 しかし、この世の中は当たり前のことが当たり前でないという事象が数多く存在する。 人はみな「ばらつき」があるのが当たり前だということもそうである。 僕は「多様性…
友人は数が多ければいいというものではない。 一人でもいれば十分である。友人が少なくて悩んでいる人もいるが、気にすることはない。 初出 2018/6/5 今の僕は人付き合いがかなり限定されている。連絡を取り合っている友人は数少ない。元々仲が良かった高校…
僕が敷かれたレールから外れた生き方をするようになって結構な月日が経ってしまった。僕としてはお気楽に楽しく過ごしているが、世間から見ればもう「終わった人間」となるだろう。 僕たちは幼いころからこの社会にうまく適応できるように教育される。協調性…
僕はこのブログを始めたころに、僕の行動規範や行動の源泉は「庶民のリアリズム」であると度々書いていた。今もこれは変わりがない。 しかしながら、この「庶民のリアリズム」というものは実は幻想にすぎないのではないか、と最近思えて仕方がないのだ。 中…
僕はずっとある時期まで怠惰は悪だと思っていた。 今やるべきことをやらない人は何をやっても駄目だと思い込んでいた。勤勉は美徳とまでは考えていなかったけれども、努力を放棄した奴は役立たずと思っていた。 ある時期を境に僕の価値観はコペルニクス的に…
僕はもう人生の折り返し点を過ぎたと自覚している。 人生の後半部分を生きているのだ。 体のあちらこちらにガタがきている。 後はもう、下り坂をそろそろと下りるようにして生きていくものだとの諦念がある。 しかし、僕はこのことを悲観していない。 何度も…
僕は巷間にあふれている自己責任に関する言説に強い違和感を抱いている。 かと言って自己責任を全否定するものではない。 人は自分のなした言動にある程度の責任は持つべきであると考えている。 しかし、この国においては、弱者ばかりに自己責任を負わせ、強…
僕は努力至上主義的な考え方が好きではない。悪しき精神論につながるからである。 また、生活に困窮した人たちに対して「努力しなかったからだ」と突き放す態度は無責任である。悪しき自己責任論である。 努力しようにもできない状況にある人たちがいる、と…
心が弱ったとき、生きていく力がどうしても湧きあがらないときに手に取る本が幾つもある。そのうちのひとつが「べてるの家」について書かれた一連の著作である。 僕はそれらの本を幾度となく読み返している。 「べてるの家」とは北海道の浦河町にある精神障…
働くことによって成長することもある。 しかし、僕はこの手の物言いがあまり好きではない。 働くこと以外の要素でも十分に成長は図れるはずである。 初出 2018/5/10 僕は働くことで成長ができる、という物言いに違和感を覚える。はっきり言って嫌いである。 …
資本主義社会ではカネをより多く稼ぎ、また多くの資産を持っている者が力を持つことになる。消費をより多くする者が資本主義社会の適応者でもある。 ビンボーであるとこの社会ではみそっかす扱いされる。しかしながら、ビンボー即不幸だと断定することはでき…
時々無造作に使用してしまうが、僕は「社会人」という言い方が好きではない。 そこには正社員として会社に勤めていて、給料をもらって生活を自分の力で成り立たせていて「自立」しているというニュアンスが込められているからである。 国家やあるいは世間が…
僕はもう若い頃に戻りたいとは思わない。「オッサンライフ」を満喫している。 ただ、新たな出会いが極度に減っていることが悩ましいところである。 人とのゆるやかなつながりが大切なことは重々承知しているが、現実はなかなか思うとおりに行かない。うーん…
僕はいつの間にやらマイノリティの側に属する人間となったようだ。 自らが望んでそうなったわけではない。信念や信条があるわけでもない。 色々な経験を積み重ねていくうちに、自分の身の置き所を探し求めていくうちにそうなってしまったのだ。 まず僕は会社…
「おせっかい」という言葉にはネガティブなニュアンスが込められていることが多い。 誰かが困っているときに手助けをする、ということが当たり前ではなくなってきていることの証である。人は「おせっかい」をしたりされたりしながらどうにかこうにか生きてい…
よく巷で言われる話に、「一旦生活レベルをあげてしまうと、もう生活レベルをさげることができない」という類のものがある。 何らかの理由で収入が減っても、支出額はなかなか減らすことができないという話だ。そのために生活レベルを維持するために消費者金…
カネ儲けの才能は、人が持つ様々な能力のうちのひとつに過ぎない。 よってカネ儲けができる才覚がなくても悲しむことはない。 しかし、現行の社会システム(資本主義体制)では殊更にカネ儲けの才能がクローズアップされる。僕は現行システムに親和的でないと…
僕たちは大抵は幼少時から「真っ当に」生きろという刷り込みがなされている。 きちんと学校に通い、いいとされる高校や大学に入り、一流とされる会社に就職することが良い生き方だとされていた。 敷かれたレールに乗って生きていくことが善とされていたので…
僕は中年のオッサンである。これからは年々体が衰えてくる。右肩上がりの成長は望めないし、またそんな生き方もできない。 死に一歩ずつ近付いているという実感がある。若いころのしなやかさや瑞々しさが失われて久しく、それらを懐かしむ心境に至っている。…
僕は今、「成長」とか「自分磨き」とは無縁の状況にいる。 若いころはそれらにこだわっていた。 今日よりは明日、明日よりは明後日というように右肩上がりの成長を図ることが当然と考えていた。まったりと生きるということが考えられなかったのだ。 その当時…
カネと命を天秤にかけることは本来ならナンセンスなことである。 命よりもカネを優先順位の高位に置く人のことを守銭奴という。 昔は守銭奴は蔑称だった(今もその名残はある)。 守銭奴が大きな顔をできる資本主義システムは果たして良いものだろうか。 初出 …
街ゆく人たちに「カネがあれば、幸せである」かと問えば、そうではないと多くの人たちは答えるだろう。カネで買えないものが世の中には多くある、友情や愛情とか精神的な安らぎなどはカネでは買えないと。 とは言いながら、大多数の人たちは度量衡としてカネ…
僕は殊更に自分を大きく見せようとする人が苦手であり信用できない。 社労士事務所を営んでいるときに、僕は自分を大きく見せようとしている人たちにちょくちょく出会った。会社でこんな凄いプロジェクトを任されているとか、俺はこんな凄い人と知り合いだと…
人には承認欲求がある。 誰かからあてにされ、信頼されるとそれだけで嬉しい。 自分が誰かのために役立っていると、共同体の成員としての役割が果たせていると充実感を得ることができる。 しかしながら、誰かの「役に立っている」かどうかばかりに拘泥すると…