希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

生きるということ

道草を食ったり、寄り道することは楽しいという件

僕が小学生あるいは中学生のころ、学校からの帰路に道草を食うことがその頃の楽しみだった。友達と連れ立って通常の帰り道から外れたり、駄菓子屋や本屋に寄ったりすることがささやかな楽しみだったのだ。友だちと道草を食う行為の共犯関係になることでより…

「働けなくなったら、死ね」という社会はまぎれもなくディストピアであるという件

僕たちは特別な状況に自分が陥らない限り、自分が働けなくなった時のことを想像できない。心身の病気になったり、心身に障害を負ったり、劣悪な労働の条件の会社に勤め続けて消耗して退職を余儀なくされたり、ただ何となく今の仕事が嫌になったりと、これら…

僕の黒歴史、それは中学時代であるという件

僕は学校というものに不信感を抱いている。 小学生の時に不登校になり、その不信感は拭い難いものとなった。 そして、暗黒の中学校時代を過ごすことによってそれは増幅されることとなった。 僕の中学校時代というともう30年以上も前のこととなり、記憶のディ…

「かけがえのない人」にはなれなくても、全く大丈夫であるという件

僕たちは幼い頃は全能感に包まれている。世界の中心に自分がいて、自分以外の他者はすべて自分に注意を注いでいると感じている。 年齢を重ね、自我らしきものが芽生えると同時に、実は自分という人間は取るに足らないどこにでもいるありふれた存在なのではな…

僕はこの社会の片隅で機嫌よく暮らしていきたいという件

僕は毎日を機嫌よく過ごしたい。 今の僕の生活の指針はこれだけである。 機嫌よく過ごすために必要なことはそれほど多くない。 嫌なことは嫌と言う、嫌なことはできるだけしない。世間の人を判断する評価基準に踊らされない。必要以上のカネを求めない。まあ…

逃げ続ける人生もどうかと思うけれども、たまには逃げても良いという件〈再掲〉

相手を鼓舞するときによく「逃げてはダメ」といった類の言葉を吐くことがある。 これは時には効くけれども、しばしば相手を追い込むことにもなる。 生きていくうえで「逃げ場」も必要になるときがある。 初出 2018/8/23 僕たちは子供の頃から、「逃げてはダ…

カネは大切なものだということは分かっているけれども・・、という件

僕はビンボー生活を長く続けている。 カネのありがたみは人一倍分かっているつもりだ。 でも、目先のカネのために魂を売り渡すような真似だけはしたくない、と常々思っている。 貨幣・通貨とは効率よく商品やサービスを手にするために作られた交換手段のひと…

コミュニケーション能力とは何か、それは本当に必要なのかという件

就活の際にあるいはそこから先の仕事をしていくうえで「コミュニケーション能力」が必要不可欠だとされている。 僕もかつてはこの言説を信じ込んでいた。 そしてコミュニケーション能力を高めるために試行錯誤を繰り返していた。 しかし、もともとがひねくれ…

自分の老いを受け入れることは、もしかすると楽しいかもと思えるようになったという件

僕は若い頃、死への恐怖と同程度に老いへの恐怖心があった。 歳をとったら身体のあちらこちらにガタが来る、思考力が衰える、頑固で保守的になる、瑞々しい感性が失われる等々と思っていたのだ。これらの懸念事項は半分は当たっていて半分は外れているような…

大人になってからの学びは楽しくて面白いという件

学ぶことと「勉強」は完全に同一なものではない。 勉強にはどうしても強制というニュアンスがつきまとう。大雑把に言えば、楽しんでやるのが学ぶことで、いやいやながらもこなすのが勉強である。 僕は子供のころ、勉強が嫌いだった(今でも嫌いだ)。中学校ま…

人に対する「信用」や「格付け」は、人の「選別」に行き着くという件

新しいビジネスとしてAIによって人間の信用度を測り、そのデータを企業に売るというものがあるらしい。この話を聞いて僕は暗澹たる気持ちとなった。 そんなに人間を格付けしたいのか、選別したいのかと。 クレジットカードや消費者金融の会社が対象者の信用…

「ほどほどに」生きていく、ということをもっと考えてもいいのかもしれないという件〈再掲〉

成長や自己実現という言葉に踊らされ、背伸びすることを強いられる社会は窮屈だと感じる。それらは経済成長に資する生き方をせよ、と急き立てられているような感じもする。身の丈に合った生き方を志向することは間違ってはいない。 初出 2018/6/14 成長や自…

人はみな「ばらつき」があるのが当たり前であるという件

人はそれぞれ個性があり多種多様である。 のっけから当たり前のことを書いてしまった。 しかし、この世の中は当たり前のことが当たり前でないという事象が数多く存在する。 人はみな「ばらつき」があるのが当たり前だということもそうである。 僕は「多様性…

友人なんて数人いれば十分であるという件〈再掲〉

友人は数が多ければいいというものではない。 一人でもいれば十分である。友人が少なくて悩んでいる人もいるが、気にすることはない。 初出 2018/6/5 今の僕は人付き合いがかなり限定されている。連絡を取り合っている友人は数少ない。元々仲が良かった高校…

近頃ますます社会不適合者になっているような気がするけれど、焦りはないという件

僕が敷かれたレールから外れた生き方をするようになって結構な月日が経ってしまった。僕としてはお気楽に楽しく過ごしているが、世間から見ればもう「終わった人間」となるだろう。 僕たちは幼いころからこの社会にうまく適応できるように教育される。協調性…

「庶民のリアリズム」なんてもはや幻想にすぎないのではないか、という件

僕はこのブログを始めたころに、僕の行動規範や行動の源泉は「庶民のリアリズム」であると度々書いていた。今もこれは変わりがない。 しかしながら、この「庶民のリアリズム」というものは実は幻想にすぎないのではないか、と最近思えて仕方がないのだ。 中…

「怠惰は美徳」とは指弾されるほどの間違った考え方なのだろうか、という件

僕はずっとある時期まで怠惰は悪だと思っていた。 今やるべきことをやらない人は何をやっても駄目だと思い込んでいた。勤勉は美徳とまでは考えていなかったけれども、努力を放棄した奴は役立たずと思っていた。 ある時期を境に僕の価値観はコペルニクス的に…

「ほどほどに」「頑張りすぎない」をモットーにしていきたいという件

僕はもう人生の折り返し点を過ぎたと自覚している。 人生の後半部分を生きているのだ。 体のあちらこちらにガタがきている。 後はもう、下り坂をそろそろと下りるようにして生きていくものだとの諦念がある。 しかし、僕はこのことを悲観していない。 何度も…

「自己責任論」を僕なりに考えてみるという件

僕は巷間にあふれている自己責任に関する言説に強い違和感を抱いている。 かと言って自己責任を全否定するものではない。 人は自分のなした言動にある程度の責任は持つべきであると考えている。 しかし、この国においては、弱者ばかりに自己責任を負わせ、強…

「努力をすれば報われる」という嘘を垂れ流し続けるのはやめようという件〈再掲〉

僕は努力至上主義的な考え方が好きではない。悪しき精神論につながるからである。 また、生活に困窮した人たちに対して「努力しなかったからだ」と突き放す態度は無責任である。悪しき自己責任論である。 努力しようにもできない状況にある人たちがいる、と…

「べてるの家」についての本を読むたび、僕の心は洗われるという件

心が弱ったとき、生きていく力がどうしても湧きあがらないときに手に取る本が幾つもある。そのうちのひとつが「べてるの家」について書かれた一連の著作である。 僕はそれらの本を幾度となく読み返している。 「べてるの家」とは北海道の浦河町にある精神障…

会社で働かなくても成長はできるという件〈再掲〉

働くことによって成長することもある。 しかし、僕はこの手の物言いがあまり好きではない。 働くこと以外の要素でも十分に成長は図れるはずである。 初出 2018/5/10 僕は働くことで成長ができる、という物言いに違和感を覚える。はっきり言って嫌いである。 …

ビンボーであることは決して不幸ではないという件〈再掲〉

資本主義社会ではカネをより多く稼ぎ、また多くの資産を持っている者が力を持つことになる。消費をより多くする者が資本主義社会の適応者でもある。 ビンボーであるとこの社会ではみそっかす扱いされる。しかしながら、ビンボー即不幸だと断定することはでき…

「社会人」とはカネを稼げる人だけのことをいうのではないという件

時々無造作に使用してしまうが、僕は「社会人」という言い方が好きではない。 そこには正社員として会社に勤めていて、給料をもらって生活を自分の力で成り立たせていて「自立」しているというニュアンスが込められているからである。 国家やあるいは世間が…

「おっさん」と化した僕の居場所はどこにあるのか、と常々考えているという件〈再掲〉

僕はもう若い頃に戻りたいとは思わない。「オッサンライフ」を満喫している。 ただ、新たな出会いが極度に減っていることが悩ましいところである。 人とのゆるやかなつながりが大切なことは重々承知しているが、現実はなかなか思うとおりに行かない。うーん…

マイノリティだとしても、生きやすい世の中になればと切に願っているという件

僕はいつの間にやらマイノリティの側に属する人間となったようだ。 自らが望んでそうなったわけではない。信念や信条があるわけでもない。 色々な経験を積み重ねていくうちに、自分の身の置き所を探し求めていくうちにそうなってしまったのだ。 まず僕は会社…

たまには誰かに「おせっかい」をしてみようという件〈再掲〉

「おせっかい」という言葉にはネガティブなニュアンスが込められていることが多い。 誰かが困っているときに手助けをする、ということが当たり前ではなくなってきていることの証である。人は「おせっかい」をしたりされたりしながらどうにかこうにか生きてい…

「一度生活レベルを上げると、下げられない」という話はウソであるという件

よく巷で言われる話に、「一旦生活レベルをあげてしまうと、もう生活レベルをさげることができない」という類のものがある。 何らかの理由で収入が減っても、支出額はなかなか減らすことができないという話だ。そのために生活レベルを維持するために消費者金…

僕はカネ儲けの才能が全くない、けれど悲観はしていないという件〈再掲〉

カネ儲けの才能は、人が持つ様々な能力のうちのひとつに過ぎない。 よってカネ儲けができる才覚がなくても悲しむことはない。 しかし、現行の社会システム(資本主義体制)では殊更にカネ儲けの才能がクローズアップされる。僕は現行システムに親和的でないと…

敷かれたレールから外れても、何とか生きていけるという件

僕たちは大抵は幼少時から「真っ当に」生きろという刷り込みがなされている。 きちんと学校に通い、いいとされる高校や大学に入り、一流とされる会社に就職することが良い生き方だとされていた。 敷かれたレールに乗って生きていくことが善とされていたので…