希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「ウチの会社」と臆面もなく言えるようになれば、立派な社畜であるという件

これから書こうとすることは全くの僕の独断と偏見である(もっともこのブログの大半は独断と偏見で成り立っているけれども)。

それは、自社を指して言うときに「ウチの会社」と抵抗なく言えれば、その人は社畜と化しているということである。

多くの人たちは誰かが「ウチの会社」と言ってもさほど違和感を抱かないと思う。けれども、僕はこの言葉にどうしても違和感を抱いてしまうのである。

 

かつて僕がある政令指定都市の職員をしているとき、その職員の多くが「わが市」とは言わずに「ウチの会社」と言っていたことに強烈な違和感を抱いたことがある。

それは地方公共団体を会社呼ばわりしていたことと、「ウチの」という接頭語をつけていたことによるものである。

僕は在職中は恥ずかしくて、「ウチの会社」なんて言えなかったことを覚えている。

それと嫌だったのは「ウチの会社」と言っているときの職員たちが誇らしげであったことと、その言葉に内在する市民に対する侮蔑感とでもいうべきものが感じられたことである。

僕が在籍した地方公共団体は当時は公共デベロッパーを標榜していて世間から注目されていたが、今は借金まみれで昔日の面影はない。

 

僕が社労士事務所を営んでいるときにも、時折「ウチの会社」と言うサラリーマンに出会った。その度ごとに僕は違和感を抱いていた。「ウチの会社って、お前の会社とちゃうやろ」「お前はただの雇われ人やろ」と思ってしまったのである。

こんな風に思ってしまう僕はつくづく天邪鬼だと痛感する。

 

なぜ世のサラリーマンたちは自分が属する会社のことを抵抗なく「ウチの会社」と言えるようになってしまうのだろう。正直なところ、僕にはそのメンタリティが理解できない。単に言いやすいからだろうか。いや、それだけが理由ではない。「ウチの会社」と言っているときのあの独特の表情はそれだけの理由では片づけられない。

 

会社に雇われて働くということは、労働契約を基にした契約関係に過ぎない。あらかじめ定められた職務に関しての労務を提供し、それに応じた報酬を受け取る契約に過ぎないのである。会社組織に一体となるのではない。

確かにある共同体に属すると、その共同体にコミットすることになり、そこに帰属意識が芽生えることもある。しかしそれは、「個人」あってのものであって、「個」が組織に溶け込み一体となるわけではない。

「ウチの会社」と言うことに抵抗感を抱かなくなるということは、個が組織に溶け込み、自分のロイヤリティを宣言するひとつの指標なのかもしれない。

 

これも僕の独断と偏見なのだけれども、「ウチの会社」と抵抗もなく言える人は、会社のルールを最優先にすることに何のためらいもない社畜的な人である場合が多い(殊更に社内ルールを持ち出し、それを不磨の大典のごとく取り扱い、そのことに疑問を抱かないような)。

僕は自分が属する会社と適度な距離感を保てないような人が苦手であるし、そのような人は信用しないようにしている。嬉々として「ウチの会社」と言うような人は、その距離感が保てていないとみなしても良いと思っている。

 

僕は一度として「ウチの会社」と言ったことはないけれども、そのことはとても真っ当なことだと思っている。

しかし、この僕の感覚が世間のマジョリティかといえば、どうも心もとない。

たとえ、マイノリティだったとしてもそれはそれでいい。

 

僕は小説を読めなくなって久しいという件

僕は近年小説を読むことができなくなっている(映画を観ることもできなくなっている)。

僕は本を読むことが好きで、毎日2,3時間は読書時間に充てているのだけれども、読むジャンルはノンフィクション・ルポルタージュ、人文科学系のものばかりで小説は殆ど読まない。

若い頃は逆に小説ばかりを読んでいた。好きだった作家の本は未だに残している。

どうして小説を読まなくなった(読めなくなったと表現する方が正しいのかもしれない)のか。老化現象のひとつなのだろうか。

 

ある小説に展開される世界に没入できなくなったのは事実である。

物語の世界に素直に入っていけなくなったのだ(だから映画やドラマも観なくなった)。

瑞々しい感性を失ったとも言える。

このままではいけない、感性が錆びついてしまうと思い、これまで何度か過去に読んで感銘を受けた作品の再読を試みたことがある。福永武彦三浦綾子遠藤周作堀辰雄山本周五郎加賀乙彦・・といった日本文学を中心としたラインナップ。

結果はダメだった。どうしても読み進めることができなかった。

最近登場した作家のものについては書店で手に取ることすらない。

 

小説を読めなくなっても読める、唯一の例外が村上春樹である。

最新作の『騎士団長殺し』も文庫版が出るのを待ち続け、それが出版されるとすぐに全巻購入し先日読了したところである。

彼の作品は全く抵抗なく読み進めることができる。

不思議なことだ。

村上作品はどの長編小説も説話類型が同じである。

同じだからと言って、つまらないわけではない(全作品を読んでいるのだから面白いに決まっている)。

村上作品は僕の心の奥底にある何かを揺さぶるのだ。それを言葉で説明することは僕にはできない。

 

僕が小説に没入できなくなったのは、それを読むことで物語の世界に生きることに喜びを見出せなくなったからである。

もちろん、現実の社会に生きていて、そこで展開される様々なことが掛け値なしに楽しいからというわけではない。この社会に現実に起きていることに接しても気鬱になるばかりである。

だからといって、物語の世界に逃避する気にはなれない。

そうするには、僕は歳を取りすぎてしまった。

 

今となっては、小説・物語を貪るように読んでいた若い頃を懐かしく思う。

未熟で、世間知らずで、自分が何者か分からなくて、もがいていたあの頃。

懐かしくは思うけれども、もう二度と戻りたくはない。

今の自分が完全に成熟したとは全くもって思わない。

ただ、あの頃よりはちょっとだけ世間ずれして「大人」になっただけである。

 

小説を読まなくなったこと、物語をあるいはフィクションの世界を特に求めなくなったということは、「大人」になったことなんだ、と今の段階での自分を納得させることにしておこう。

「大人」になることは決して哀しいことではないと、自分自身に言い聞かせて。

 

 

 

 

強い人たちを基にして社会設計をしてはならないという件〈再掲〉

常に健康でストレスにも強く、少々のことではへこたれない、という「強い人」ばかりではない。今の社会はこのような強い人をディフォルトとしているような気がしてならない。少しでも弱さを抱えた人たちを蚊帳の外に置くような社会はロクなものではない。

 

初出 2019/2/20

 

僕が若い頃、勤め人をしているときに風邪をひいたり、腹具合が悪いといった理由で仕事を休むと上司に詰られたものである。

「自己管理がなっていない」

「気合が足りない」

といったような言葉を投げかけられた。

ちょっとした体調不良で仕事を休むなんて社会人失格だと何度も言い聞かされた。

 

労働至上主義、勤勉至上主義、精神主義がないまぜになっていたのである。

同僚には、毎日夜遅くまで残業をし、有給休暇をほとんど取得しないような人たちがごろごろいた。

僕は勤め人になってから、体調不良の日々だったので、この「休んだら極悪人」という雰囲気の職場で悪戦苦闘していた。

風邪やインフルエンザに罹患するのは細菌やウイルスによるものであって、気合でどうにかなるものではない。体調不良になるのは職場環境にも原因がある。まあ、僕の場合はいやいや働いていたので、精神衛生上の問題もあった。

 

僕がかつて所属していた職場(市役所に入って2か所目の職場だが)は、「強い人」をベースにしてそういった人たちをモデルケースにしたところだったのだ。

深夜までの残業なんて当たり前、仕事は自分で作るもの、よほどの事情がないと休んではならない、といった掟が存在していたのだ。

 

相対的に「強い人」を基にして設計された社会は、普通の人や相対的に弱い人にとって誠に息苦しくて生きづらいものになる。

もし、働けなくなって収入が絶たれたら、選別主義の厳しい給付基準を潜り抜けて社会保障給付を受けなければならない。また、いつまでも給付を受け続けるわけにはいかない。すぐに「働け」といったプレッシャーをかけられ続ける。働けないと意思表示をすれば、「怠け者」「甘えている」「役立たず」といった罵声を浴び、負のレッテルを貼られることになる。

 

疾病や障害や失業により生活に困窮している弱者を置き去りにするような制度設計をしている共同体はいずれ必ず弱体化し衰亡する。

強者しかまともな社会生活を送ることができないような社会はろくでもないものである。現政権はこのろくでもない社会を作り出そうと躍起になっている。

経済的格差を拡大させて、階級の固定化を図るアナクロニズムな政策を採っている。

 

19世紀の後半から20世紀の前半にかけては、資本主義の矛盾が噴出してきた時代である。その矛盾を乗り越えようとして共産主義ファシズムが生まれてきた。

それらの社会実験が失敗に終わり、今はますます資本主義特に新自由主義・市場至上主義システムが暴走している。富める者はますます肥え太り、貧しい者はますます虐げられる。社会的強者にとってはますます居心地の良い社会になってきている。

さらには権力を握る者と強者は弱者に自己責任を押し付ける。自らは全く責任を担うこともないままに。

 

弱者は自己責任論に踊らされずに、個人で社会の矛盾に立ち向かうのではなく、弱者同士が連帯して立ち向かうしか手立てはない。

権力者は当然にその連帯を阻むために分断統治を試みることになる。さらに資本主義のドグマが人々に内面化されると、個々が共同体から引きはがされバラバラの「個」となる。

弱者による連帯は言うは易しいが実践するには大きな壁が立ちはだかっているのである。

さて、どうしたものか。今の僕には明快な答えを出すだけの力量がない。

でも、何とかしたいという意思は常に持っている。

僕は自分の非力さを思い知らされながらも、もがき続けていく。

 

 

 

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