希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

認められたいとか役に立ちたいという意識を強く持たない方がよいという件

僕たちは誰かに認められたり、人の役に立っているという実感を持つと生きる活力が湧いてくる。「承認欲求」であり、それが満たされることによって人は充実感を得ることができる。

人は社会的な生き物であるので、承認欲求が社会を成り立たせる大きな要因になっているのは確かだ。

 

僕のこれまでを振り返ってみると、やはり人に認められることを行ったときには喜びを感じたし、誰かの役に立つ行いをしたときにも充実感を得ることができた。

承認欲求を満たされるということは自己肯定感につながる。

この自己肯定感さえ持ち続けていれば、少々の困難なことにぶち当たっても何とかやりすごすことができる。

 

仕事においてもあるいは学生時代の勉学やクラブ活動においても常に承認欲求がつきまとう。自分のためだけに仕事や勉強をしても、そこには限界がある。他の誰かに認められる、役に立っているという実感が伴って、自分の限界を突破することができるようになるのである。

そういった意味では承認欲求とは、人の成長にとって必要不可欠なものであるということができる。

 

しかしながら、誰かに認められたいとか役に立ちたいという意識はときに人を縛り付けるものにもなる。

他人の眼を気にしすぎる行動様式を採ることにもなる。

他者からの期待がプレッシャーになり、それに押しつぶされて心身に不調をきたすこともままある。

 

他者からの期待に応えようとして、頑張りすぎて燃え尽き症候群に至ることもある。

あるいは長時間労働を余儀なくされて、最悪の場合過労死や過労自殺に至ることもある。

 

そして何より、認められなかったり役に立たないと感じることにより、自己の存在意義を見失う事態に陥ることがある。

僕は誰かに認められたり役に立つことによって人としての存在意義があるという考え方にどうも違和感がある。

人は無条件にその存在を認められるはずだとの思いがある。

たとえ誰かのあるいは社会の役に立っていないと見える人も当然に存在意義があるはずだ。

そもそも誰かのあるいは社会の役に立っていない人なんかいない。

誰もがその人なりのやり方で役に立っている。

 

承認欲求とは諸刃の剣である。

人を成長させ、自己肯定感を育むものであると同時に、使いようによっては人の尊厳を損なう場合もある。

また、承認欲求を悪用することによって「やりがいの搾取」的なこともありうる(ブラック企業の常套手段となっている)。

 

ものには限度があるということである。

承認欲求を満たすために、心身の健康を損なったり生命を失っては本末転倒である。

所詮、他人は自分のことなんかそれほど見ていない、それほど気にかけていないと開き直る意識を持つことも大切なことであると思う。

何事もほどほどに。

 

 

 

カネがないと時間をつぶせないという人は危ないという件

何度もこのブログに書いているが、僕はヒマ人的生活を満喫している。

僕は「ヒマつぶしの達人」を目指している。それは余分なカネを使わずに楽しく面白く時間をつぶすことである。

 

僕は若い頃、時間つぶしが下手くそであった。

同時にカネを使わないとヒマつぶしができないと思い込んでいた。

多くの人たちはカネがないと時間つぶしができないと思い込んでいるような気がしてならない。余暇も消費資本主義のドグマに侵されているのだ。

 

ヒマつぶしはカネの有無に関係はない。

いや、むしろカネがない方が良い。

いかに楽しくヒマつぶしをするかに頭を使って創意工夫を凝らすことに意義がある。

とはいってもそう難しいことではない。

カネのかからない時間つぶしの方法なんていくらでもある。面白いと感じることは人それぞれだ。そして、カネがかかっている趣味等を見直し、本当にそれをしているときに楽しく感じているのかを再点検してみる。

 

僕はラジオを聴いたり、ネットで動画を観たり、散歩したり(時たまついでに喫茶店に入る)、本を読んでいるときが楽しい。

読書については書籍代がかかるが、今は本を買うだけの余裕はあるので(ほとんどが古書であるけれども)負担感はない。書籍代が捻出できないような経済状況であれば図書館に行けばいい。図書館では長時間いても注意されないし、規定の範囲内であればどれだけ借りても何も言われない。

ラジオについては受信機器が安価であり、ラジコは数百円払えば全国のラジオ番組が聴取できる。

ネットで動画を観たり、ラジコを聴くにはパソコンが要るが(僕はスマホを持っていない)それも今はかなり安く買える。僕が持っているノートパソコンは中古品で、とても安く買えた。

パソコンがあれば、動画を観たりラジコを聴いたりする以外に色々な用途に使える。ヒマつぶしにはもってこいである。

 

カネのかからないヒマつぶしはかなり有効な生存戦略になる、と僕は確信している。

時間をつぶすのにコストがかかると、そのコストを捻出するために働かなければならない。長時間働いて、つかの間の余暇にカネがかかるという状態は、資本主義に呑み込まれていることを意味する。その無限ループから抜け出さないと、貧乏暇なし状態はずっと変わらないままである。

 

僕はヒマ人だけれども、全く退屈ではない。時間が足りないくらいだ。

カネなしで面白くヒマつぶしをしようと志向した賜物である。

僕の今の生活様式、生き方が正しいとは思っていない。しかし、間違っているとも思えない。

いい加減に生きている僕のひとつの信念。

人生は大いなるヒマつぶしである、と。

 

僕は「まともな人」になりたいという件

ヒマ人的生き方を満喫し、根っからのダメ人間になろうとしてる僕だけれども、常々まっとうな人間になろうと自分なりに努力している。

僕が思う「まっとうな人間」とはおかしいことに対してはおかしいと言うこと、批判精神を持つこと、物事の本質を捉えるように思考すること等である。

必ずしも会社に雇われて正社員として働くことや結婚することを意味しない。

世間で真っ当とされるライフスタイルを採っている人たちの中でも僕が思う「まっとうな人」は多くはない。

 

まっとうな人になるということは言うは易しだが実は意外と難しい。

この社会では「個の確立」や自己主張をしたりすることは忌み嫌われている。

だからこそわざわざ教育の目標に盛り込まれるのである。

相変わらず、この社会では相手を慮ることや空気を読むことが重要視され、「みんな」と同じ行動をすることが推奨されている。

まっとうな人になるためには、この同調圧力や空気を読むことを強いることに抗わなければならない。これがなかなかに難しくてしんどいことなのである。

 

こんな僕でも対人関係では空気を読むし、忖度するし、相手に同調しようと努めたりすることが多い。

相手がやたらと自己主張が激しかったりすると、げんなりもする。

これはこれで仕方がないと半ば諦めの心境なのではあるけれども、時と場合によっては言いたいことを言い、きちんとした対話に持っていこうとしようとは思っている。

それがすんなりとできるようになれぱ、僕の成長である。まっとうな人に近付いている証となる。

 

僕は友人知人から「はっきりと物を言う」タイプの人間だと言われていたが、全然そんなことはない。言いたいことの半分も言えず、歯がゆい思いをしてばかりいた。

特にサラリーマンをしていた頃、それとフリーランスの頃はひどかった。

サラリーマンをしていた頃は組織になじもうとして、ある種の過剰適応を来していたのだ。フリーランスの頃はクライエントに対して過剰に慮っていたのである。

今はこれらのことを反省している。全くまっとうではなかったと思っている。

 

忖度すること、空気を読むこと、相手を慮ることなどは組織人としては正しい振る舞いであろうと思う。これらのことができないサラリーマンは出世しづらい。

でも、僕はサラリーマン的な生き方は好まないしできない。

自己正当化の手段あるいは世間に対してちょっとだけの抵抗をするための理論武装として、僕なりの「まっとうな人」の定義を提示しているのだ。

世の中の大半の人たちは僕のこの考えに同調してくれないだろう。

それでもいい。

それでもいいから、僕は「まっとうな人」になりたい。

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