僕たちは誰かに認められたり、人の役に立っているという実感を持つと生きる活力が湧いてくる。「承認欲求」であり、それが満たされることによって人は充実感を得ることができる。
人は社会的な生き物であるので、承認欲求が社会を成り立たせる大きな要因になっているのは確かだ。
僕のこれまでを振り返ってみると、やはり人に認められることを行ったときには喜びを感じたし、誰かの役に立つ行いをしたときにも充実感を得ることができた。
承認欲求を満たされるということは自己肯定感につながる。
この自己肯定感さえ持ち続けていれば、少々の困難なことにぶち当たっても何とかやりすごすことができる。
仕事においてもあるいは学生時代の勉学やクラブ活動においても常に承認欲求がつきまとう。自分のためだけに仕事や勉強をしても、そこには限界がある。他の誰かに認められる、役に立っているという実感が伴って、自分の限界を突破することができるようになるのである。
そういった意味では承認欲求とは、人の成長にとって必要不可欠なものであるということができる。
しかしながら、誰かに認められたいとか役に立ちたいという意識はときに人を縛り付けるものにもなる。
他人の眼を気にしすぎる行動様式を採ることにもなる。
他者からの期待がプレッシャーになり、それに押しつぶされて心身に不調をきたすこともままある。
他者からの期待に応えようとして、頑張りすぎて燃え尽き症候群に至ることもある。
あるいは長時間労働を余儀なくされて、最悪の場合過労死や過労自殺に至ることもある。
そして何より、認められなかったり役に立たないと感じることにより、自己の存在意義を見失う事態に陥ることがある。
僕は誰かに認められたり役に立つことによって人としての存在意義があるという考え方にどうも違和感がある。
人は無条件にその存在を認められるはずだとの思いがある。
たとえ誰かのあるいは社会の役に立っていないと見える人も当然に存在意義があるはずだ。
そもそも誰かのあるいは社会の役に立っていない人なんかいない。
誰もがその人なりのやり方で役に立っている。
承認欲求とは諸刃の剣である。
人を成長させ、自己肯定感を育むものであると同時に、使いようによっては人の尊厳を損なう場合もある。
また、承認欲求を悪用することによって「やりがいの搾取」的なこともありうる(ブラック企業の常套手段となっている)。
ものには限度があるということである。
承認欲求を満たすために、心身の健康を損なったり生命を失っては本末転倒である。
所詮、他人は自分のことなんかそれほど見ていない、それほど気にかけていないと開き直る意識を持つことも大切なことであると思う。
何事もほどほどに。