希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕はカネの話しかしない人を信用しないという件

僕は長らくビンボー生活を送っている。

それがゆえにカネのありがたみをよく理解していると自認している。

日常生活には支障がないが、ちょっと値がはるもの、パソコンやエアコン等の耐久消費財が故障したりすると、途端に困ってしまうことになる。昨年、パソコンとエアコンが壊れて難儀した。使いたくはないクレジットカードのリボ払いを使ってどうにかしのいだが、まとまったカネがあればなぁとため息が出たものである。

 

カネのありがたみを骨身にしみて痛感している僕だけに、そして元来のひねくれ者であるがゆえに、カネよりも心が大切だとか、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大切だといった類の言説には素直に頷けない。

「世の中、所詮はカネだ」との思いが心の奥底で渦巻いている。

 

しかし一方で、カネの話ばかりしかしない人を全く信用しない自分がいる。

カネ儲けは汚いことなんて考えているわけではない。資本主義体制のこの世の中で、カネ儲けを全否定したら生きていけない。

 

僕が社労士事務所を営んでいるとき、ちょくちょく色々な異業種交流会や勉強会に顔を出していた。その際に、よく儲け話を持ち掛けられた(僕の風体から「カモ」だと思われていたのだろう)。

なかでもマルチ商法(それをしている人たちはネットワークビジネスだと言い張っていた)の誘いがとても多かった。僕はそのビジネスを全否定しているわけではない。やりたい人はお好きにどうぞというスタンスを採っている。

僕がその手の話を聞いて(僕は人が良いのでわりと話を聞いていた)、モヤモヤとした違和感をいつも抱いていた。彼らは年収〇千万も夢ではないと熱く語るとともに、「仲間ができる」とか「夢がかなう」といった話も熱く語っていた。

そのときに僕は人が良いので(実は人が悪いので)、あなたの夢は何ですか、どんな夢が 叶いましたか、と問い返すことが多かった。そして、大半が「外車を買った」とか「海外旅行に行った」といった類の答えが返ってきた。カネで買える夢ばかりの話しか出なかったのである。結局はすべてがカネに還元する話だったわけである。

「夢」や「感動」、「仲間との絆」を強調するのはマルチ商法の常套手段である。そしてそれらはブラック企業のマネジメントにも通じている。

僕はこの手の「夢」や「感動」話を受け付けない体質なのである。

それらがたとえマルチ商法ではなく、一見まっとうなビジネスであってもである。

 

僕は市場原理主義的あるいは新自由主義的な考え方に懐疑的なのは、つまるところはカネの話しかしていないからである。

医療や福祉や教育、あるいは社会共通資本を効率性でしか考えず、民営化すればすべてよしとするイデオロギーは、結局はカネの話になるがゆえに僕は否定的な立場を採るのである。

市井に生きる人たちの安全や健康、生命、安心等をカネに換算するという姿勢がどうにも馴染めないのである。

 

カネやカネ儲けは一義的なものではなく、副次的なものである、とどうやら僕は考えているようだ。このことが正しいのかどうか僕には分からない。おそらく「甘い」のだろう。世知辛い、カネがあってなんぼという世の中においては、僕のような人間は落ちこぼれてしまうのだろう、かなりの確率で。

それでもいい、と僕は覚悟し諦念している。

カネの話しかしない人間になるよりは、陋巷でくたばった方がいい。

 

 

学歴の高さと仕事の能力とは相関関係があるのか、という件

僕は労働問題や貧困・格差の問題に興味があり、同時に教育についても関心を持っている。

教育問題についてあれこれ考えていると、どうしても「学歴」の話に行き当たる。

学歴の効用は何か、それが本当に顕在化するほどのものなのか、社会の中で生きていくうえでどれほどの重要度があるのか等々である。

 

学歴が高いほど仕事の能力が高まるのか。この話題については昔から侃々諤々の議論がなされている。

学歴が高いほど仕事の遂行能力が高まるという人もいれば、学歴と仕事の能力とは無関係だと言い切る人もいる。

メリトクラシー(業績主義・能力主義)の世の中では学歴の高さは無関係とは言い切れない、といったあたりが議論の落としどころのような気がする。

 

僕の実体験から言うと、学歴と仕事の能力との間には「うっすらとした関係」があるのは否定できない。サラリーマンをしていたときも社労士事務所を自営していたときもそう感じていた。

僕は新卒で役所に勤めることになった。その役所は学閥といったものはなく、割と能力主義的な人事をしていたのだが、幹部職員の殆どは特定の数校の大学出身者だった。

社会保険労務士にしても、僕の知る限りでは殆どの人がある一定レベル以上の大学の出身者だった。

これらの事実だけを持って学歴と仕事の能力とは相関関係があると断定はできない。さりとて無関係だと断言もできない。

 

一般に難関とされる大学を出た人たちは仕事が出来て当然だという風潮がある。高偏差値大学の出身者でも中にはイマイチ仕事が出来ない人がいる。そういった人たちは目立つがゆえに、安易に高学歴者は仕事が出来ないという言説が生まれがちになる。一方で学歴のない「叩き上げ」の人たちも一定数存在する。その例外的なケースを挙げて、やはり学歴と仕事は関係ないという言説が生まれてくる。

 

そもそも「仕事の能力」といったものにはっきりとした基準があるわけではない。問題に対する処理能力やコミュニケーション能力等が度量衡となるわけだが、これらについても会社や部署によって異なる相対的なものである。当たり前の話だが、研究職や営業職、管理職、経理財務職、企画職等のそれぞれは求められる能力が変わってくる。

学歴の高さと仕事の遂行能力の間に相関関係があるかどうかなんて大した問題ではないと思えてくる。その職務に「嵌っているか」「嵌っていないか」だけの話になってくる。

 

話がややこしくなるのは、会社の社員採用時、特に新卒社員を雇い入れるときに(特に大企業では)学歴あるいは学校歴が採用基準のファクターになっていることだ。

採用時に学歴・学校歴を考量するということは、学歴と仕事の能力に何らかの関係があると多くの会社が認めているということである。この事実に対する当否については何とも言えない。会社が社員を採用する際の基準は会社それぞれが自由に決めることであり、外野の人たちが口出しすることはできない。

 

このエントリーの結論的なこととは、学歴の高さと仕事の能力との間には相関関係があることもあればないこともある、ただそれだけのことだ。

自分が属する組織、業界によって変わってくるものとしか言いようがない。

ある人が人事上不遇をかこっていて、自分は○○大学出身者でないから出世できないという逃げ道を設けている、といった程度の学歴の効用はありそうな気がする。

ただ、企業社会はメリトクラシーが貫徹されているわけでもなく、完全に学歴主義でももないとは言えそうである。このあいまいさをどうとらえるかはその人の属性や価値観によって決まるものである。

「自己責任論」を僕なりに考えてみるという件〈再掲〉

この国で声高に叫ばれている自己責任は、弱者に対してのみ向けられる。

貧困を自己責任だと言い募るのは前世紀の遺物である。

自己責任を押し付けることによって、責任逃れをしている輩は数多いる。

 

初出 2018/11/13

 

僕は巷間にあふれている自己責任に関する言説に強い違和感を抱いている。

かと言って自己責任を全否定するものではない。

人は自分のなした言動にある程度の責任は持つべきであると考えている。

しかし、この国においては、弱者ばかりに自己責任を負わせ、強者は(政治家や官僚、大企業とその経営者等)自己責任を逃れているという倒錯した状況になっている。

この点に僕は強い怒りを覚えるのである。

 

僕が自己責任論的なものを肌感覚ではじめて味わったのは高校に入ってからのことだった。

僕が入学した高校はローカル・レベルだけれども学区のトップ校である進学校だった。

授業の進度(特に数学と英語)が中学校の時の数倍の速さで、予習をしていないととてもついていけないものだった。しかも高校の教師は生徒が皆理解していることを前提に授業を進める。当時は補習等の学校側のフォロー体制が皆無で、理解できなければ学生の自己責任とされていたのだ。学生の方もその点は心得ていて、「教え方が悪い」とか「早く進めすぎだ」といった文句など全く出ることはなかった。理解できないところがあれば、個別に教師に質問に行くか、出来の良い他の生徒に聞くかして(あるいは塾や予備校に通うことによって)自力で解決するしかなかった。

僕は高校時代のこの経験によって、自己責任のメンタリティを養ったのである。

 

僕は大学時代、働くようになってからも自己責任という考え方に疑いを挟むことはなかった。

潮目が変わったのは社労士事務所を廃業し、うつを罹患してひきこもり生活を余儀なくされた時だった。

「この状態はどう考えても、俺だけの責任じゃない」と感じ、ひとり自分だけに責を負わせる考え方には無理があるとの考えが脳裏をかすめた時、自己責任論の呪縛から解き放たれたのである。

 

貧困は自己責任である、という言説が未だに蔓延っている。

この考え方は産業革命を経て、資本主義の矛盾が露呈した頃のヨーロッパ先進国、特にイギリスにおいて唱えられたものである。貧困は努力や能力の不足によるものであって、国家は貧困世帯に対しては恩恵的に恤救はするが、その内容は劣等処遇の原則(最下層の労働者の生活レベル以下の処遇)に貫かれたものだった。

生存権の概念はワイマール憲法を嚆矢とするとされているが、社会主義的な施策(時としてファシズムの施策も混入して)が導入されることにより多くの先進国でそれが実現した。

この国でたびたび起きる生活保護バッシングは前世紀の遺物である劣等処遇原則と貧困は自己責任であるという考え方から脱していないことを表しているといえる。

 

僕は何でもかんでも社会システムのひずみや他者のせいにするという考え方には同意はできない。

ある場面においては自己責任、またある場面においては国家や社会の責任というように分けてとらえるべきだと思っている。

ただ、他者に向かって自己責任論を押し付ける態度は間違っていると思う。それは責任を相手にすべて擦り付けて、自分だけは責任の埒外に身を置くという無関心・無責任な態度である。

国家が自己責任を声高に言い募るときは、国家の責任を逃れるための詭弁を弄するときである。主に社会保障の実現という責務から逃れ、生存権の保障という現代国家の主要な責務から逃げようとする意思を表しているのである。

 

自己責任論が声高に唱えられる社会は間違いなく生きづらさが充満したものとなる。

様々なきっかけによって幾度となく自己責任論が再燃するこの国のこの社会の歪さは一朝一夕では改まらない。

しかしながら、僕たちはこの社会の中でその成員として生き続けることになる。

生きづらい世の中を急には変えることはできないけれども、そのための足掛かりを築くために、自己責任という圧力に抗うような手立てをひとりひとりが微小な力でも続けるしかない。 

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