希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

働くことが嫌になっても、気にすることはないという件〈再掲〉

誰でも、働くことが嫌になるときがある。

勤勉が美徳とか働くことは尊いというイデオロギーに浸っていれば尚更のことである。

働くことが嫌になっても、それは人として当然のことであって気にすることはない。

 

初出 2018/5/31

 

僕は年がら年中働くことが嫌になる。

今は割と好きな自分に合っている仕事をしているけれども、それでも職場に出向く前に「あーあ、嫌だな」という気持ちになってしまう。

これは僕の資質や性格によるものなのか、あるいは労働というものが有している根源的なものによるのかは定かではない。

 

働くことが嫌いだと公言すると、世間からは冷たい視線を浴びることになる。仲の良い友人にもおいそれとは言えない。もし、働くのは嫌だと友人に言ってしまうと微妙な空気が流れる。さすがに説教されることはないが、でもなぜ労働が苦痛かという話題は深まることはない。

多くの真っ当な人たちにとっては働くことはごく当たり前のことであり、それに異を唱えることは社会・世間に居場所を失くしてしまうような一大事なのである。

 

僕は元から働くことに苦痛を感じていたわけではない(働くことが好きなわけではなかったけど)。どうやら、歳を経るにつれて雇われて働くことがたまらなく苦痛になってきたようだ。自営業やフリーランスの形で働いているときは、辛いことや嫌なこともあったけれども、前のめりに仕事に向かい合っていたように思う。

僕が好きなこと情熱を傾けることができることとカネを生みだすことができる事柄とがうまくマッチングしていないだけなのだ。~だけなのだ、と強がってはいるが、これは僕にとっては大きな問題である。カネを生み出す仕事にうまいこと就けないことになるからだ。僕の志向と世の中にある仕事がマッチングしない、と泣き言を言っているだけでは干上がってしまう。僕はこれまで自分がやりたいことや実際にできることと世の中の仕事との間に折り合いをつけて、だましだましやってきたのだ。これは僕だけの話ではなく、大半の人たちにも当てはまることだと思う。

 

雇われて働くということは、そこに雇用者・経営者との間に支配ー被支配関係が生まれ、常に搾取され続けるということである。僕は搾取自体が悪だとは思わない。資本主義体制は搾取なしには成り立たない。資本主義体制を支持している限り、搾取を否定することはできない。でも、自分が働いた分の利益の大半を搾取されることに、何だかなぁ、という思いはある。それゆえに僕はフリーランスを指向することになるのだけれども、それはそれで別の違った様々な問題がある。

雇われて働くのは嫌だけども、ある意味では楽であるということも言える。

 

世のサラリーマンたちの中で、「嫌だなぁ」と思わずにすすんで働いている人たちはどれくらいの割合でいるのだろうか。

働くことが嫌になってしまったら、どのように対処すればいいのだろうか。

僕には正しい答えが分からない。

僕の主観であり、エビデンスのない予測だけれども、かなりの割合で働くことを苦痛に感じている人たちが存在しているように思う。生活のためにやむなく働いている人たちが多数派で、本当に仕事が面白くて仕方がないと思って働いている人はレアケースなのではないか。

 

僕は常に沸き起こる「仕事が嫌だ」という気持ちを手懐けながら生きていくしかないと思っている。仕事が嫌だという感情を無理に押さえつけることは不可能だ。ネガティブな感情は決して悪いものではない。ネガティブな感情を無理やりポジティブなものに変えることを称賛する世の中の風潮が間違っている。

働くことが嫌になることは常に起こりうるものとして、その気持ちに対峙し、否定せずに自分なりに飲み込んて「仕方なく」働き続ける。

働くことが嫌になっても、そんなに気にすることはない。

  

「庶民のリアリズム」なんてもはや幻想にすぎないのではないか、という件

僕はこのブログを始めたころに、僕の行動規範や行動の源泉は「庶民のリアリズム」であると度々書いていた。今もこれは変わりがない。

しかしながら、この「庶民のリアリズム」というものは実は幻想にすぎないのではないか、と最近思えて仕方がないのだ。

中間共同体が崩壊し、個人の自己決定・自己責任ばかりが問われる社会になっているからである。

 

高度経済成長期の頃まで、社会全体は貧しかった。社会保障制度や公的なセーフティネットは今よりも脆弱であった。なればこそ、貧しい庶民は助け合ってどうにかこうにか生活を成り立たせていた。迷惑をかけあって、その迷惑を拒絶せずに助け合っていたのだ。この迷惑のかけあいが庶民のリスクヘッジだったのである。

 

「庶民のリアリズム」とは、為政者の首がすげ変わろうとも社会の変動があろうとも、それらに影響されずに友人知人や近隣の人たちと「迷惑をかけあう」というリスクヘッジを行って自分の生活を守るということ、と僕は考えている。

ところが、その前提となる「迷惑のかけあい」が忌避されるものとしてとらえられるようになっている。カネを持たない庶民にとって人とのつながりがどれほどあるかが生命線である。にもかかわらず、その生命線が絶たれようとしているのだ。

 

庶民のリアリズムに基づいた庶民像と対極にあるのが「孤立した群衆」である。今は多くの人たちがこの孤立した群衆になってしまっている。

「孤立した群衆」が大量に生み出されたのは社会の病理現象ではない。戦後のこの社会が目指してきた「個の確立」や「自己決定・自己責任」的な生き方、陋習にとらわれた中間共同体からの離脱といった目標が達成された帰結として孤立した群衆が大量発生したのである。

資本主義体制下では(特に新自由主義的な考えのもとでは)個人はモナドとなり、他者との紐帯が失われてしまうのだ。

 

弱い個人が孤立するのは最悪の生存戦略である。多くの人たちはこのことを頭では理解していても、何をどうすればいいのか分からない状態に陥っている。

いまさら「連帯」といってもその具体的な手立てが分からない。よりどころとなるべき様々な共同体は絶滅の危機に瀕している。

人は安心して我が身を置ける「居場所」がないと不安感が募る。

 

庶民のリアリズムなんて幻想にすぎないと述べたが、それを幻想にしない営為を続けるしか閉塞した状況を打破する手立てはないように僕は思う。

ひとつの方法としては、人とのゆるいつながりを作るということだ。また、自由なゆるいつながりをベースとした疑似共同体を作るという手もある。

あちらこちらで若者を中心としてこのような疑似共同体を作ろうという試みがなされている。この動きはとても良いことである。有効な生存戦略となりうるものである。

庶民のリアリズムなんて幻想だと切り捨てずに、再びそれを見直す試みを続けることこそが孤立から逃れられる術である。

「怠惰は美徳」とは指弾されるほどの間違った考え方なのだろうか、という件

僕はずっとある時期まで怠惰は悪だと思っていた。

今やるべきことをやらない人は何をやっても駄目だと思い込んでいた。勤勉は美徳とまでは考えていなかったけれども、努力を放棄した奴は役立たずと思っていた。

 

ある時期を境に僕の価値観はコペルニクス的に転換し、今は怠惰は美徳とさえ思えるようになっている。ただ世間を憚って、声を大にして主張はできない。

怠けることは良いことだと公言すると、今の社会システムの中では浮き上がってしまい、時として排除されることになる。

でも、僕は声を潜めて(心の中では声を大にして)言いたい。

「怠けることのどこが悪いのか」と。

 

僕たちは学校に通っている間も働きだしてからもずっと「勤勉」であることを強いられる。

宿題をきちっとすること、行事に積極的に参加すること、休まないこと、サボらないこと、残業を厭わないこと、等々。

怠けるような気配でも出せば、教師や上司から叱咤される。

そして悪魔の言葉を吐かれる。「怠けるような奴はロクな人間にはならない」。

この呪詛をかけられて、僕たちは怠惰は悪だとの刷り込みがなされ続けるのである。

 

勤勉が美徳とされだしたのは、資本主義システムが勃興してからのことである。

資本主義体制を維持発展させるためのエートスに過ぎないものである。

人々の際限のない欲望を充足させるためには常に拡大再生産を続けなければならない。常に目一杯働き続けなければならない。怠けている暇などない。

一旦止まったら、現行の資本主義システムは瓦解するとの強迫観念に支配されているかのように。

怠けることを悪いとは思わないマイノリティはあたかも中世の魔女のごとく排斥されてしまうのだ。

 

右肩上がりの経済成長が続いていた社会では、勤勉は美徳というエートスは有効な生存戦略でありえた。

一方で今の右肩下がりで下り坂を下りていく今の社会では既存の価値観が有効であるのかは疑問である。かつての経済成長を夢見て、ゴリゴリに働き続けることを良しとする考え方自体が時代遅れの遺物なのではないか。

目標を定めて、それに向かってまっしぐらに突き進むという行動様式が無効化されているような気がして仕方がないのである。

 

もはや経済成長は見込めない社会においては、それに適応する生存戦略が存在すると考えた方がよい。

そのひとつが「怠惰は美徳」かもしれないということだ。

何も僕は来る日も来る日も、日がな一日何もせずに惰眠を貪れと言いたいわけではない。

時には立ち止まって、一休みして、怠けることを楽しむゆるさが余裕があってもいいのではないか、と言いたいだけなのだ。

たまに仕事をサボるのもよし、仕事を辞めて、無職の時を過ごしながら内省的にすごすのもよし、といったように走り続けることを一旦停止して、道草を食ってみてもいいのではないかなぁと思う。そのためには無論、道草を食っても、また元の道に戻りやすいような社会システムが構築される必要がある。

「たまには怠けてもいい」「ほどほどに、ぼちぼちと」といった言葉が行き交うようなゆるい社会であれば、多くの人たちの生きづらさが軽減される。

 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します