希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

自分は「被害者」だと言い立ててばかりいていいのだろうか、という件

この社会には多くの矛盾がある。

この社会には数多くの歪みがある。

既得権者が己の利権をほしいままにするためのシステムを作り上げ、身内で独占しようとする。個人の能力差によるものよりはるかに超えた格差がある。

僕たちはこのどうしようもない社会による被害者だと思ってしまうことがある。

これはこれで仕方がない面がある。個人の頑張りだけではどうしようもないことがあまりにも多すぎる。

 

僕たちが社会の歪みや不公正さを言挙げするときに、自分が社会的強者から不当に収奪されている「被害者」の立ち位置に身を置いた方が話が見えやすくなることは否めない。単純な善悪二元論に落とし込んだ方が一見論点がすっきりすることもある。複雑に絡み合った問題が分かりやすくなるのである。

しかし、この分かりやすさが曲者なのである。

 

一昔前に「ロスト・ジェネレーション」に関する言説が活発になっていた時期がある。団塊ジュニアと呼ばれる世代が就職氷河期とぶつかり、思うような職に就けずにその世代の多くが意にそわない職に就いたり非正規雇用の職に就かざるを得なくなり、先行世代の犠牲になっているという論である。

僕はある程度は理解し共感はしたが、何だかもやもやとした違和感を覚えた。

それは「雇われて働くこと」「正社員であること」ありきの論議に思えたからだ。

確かに正社員と非正規雇用の両者には経済的格差が存在する。でも、正社員としての「身分」が確保されれば事足りるといえるのだろうか。本当にロスト・ジェネレーションと呼ばれる人たちは被害者だと言い切れるのだろうか。ただ、先行世代の価値観をなぞっているだけではないのか、と思えて仕方がないのだ。

 

社会的強者やあるいは先行世代によって社会的リソースを収奪されているというロジックは分かりやすい。一定層の人たちの共感は得られるであろう。

自分は弱者であるとか被害者であると言い立てて、収奪者(とされる者たち)から奪われたリソースを奪い返せ、という物言いはこちらも分かりやすい。昔のある種のマルクス主義者と類比的である。

しかし、自分を「被害者」という立ち位置に固定し、我に「義」があり我が「正義」だとする立場に安住すると思考停止に陥ってしまいかねない。これこそが大問題である。

 

僕は社会の不公正さやシステムの歪みに怒りをもって異を唱えることはとても大切だと思う。時には行動に移すことも必要である。

しかしながら、弱い者こそがあるいは被害者こそが絶対の正義である、被収奪者こそが異議申し立ての主体になり得るという考え方には同調できない。

なぜそう思うのかと問われて、論理的に説明することは僕にはできない。この違和感の根源を語る言葉がはっきりと見つからないのだ。

ひとつ言えることは、弱者や被害者、被収奪者のみが正義を行使しうるという思考様式が非寛容さを生み出し、その言動が排外的なものになり、転じて「抑圧者」になるおそれがあるということだ。

 

この世の中では一部の犯罪を除いて一方的な加害者・被害者という区分けはできない。同様に収奪者・被収奪者、社会的強者・社会的弱者という区分けもできない。

時と場合によってどちらにもなり得るものである。

被害者や弱者、被収奪者という立場に身を置くことによって果実を得られることもあるだろう。でも、それは「禁断の果実」かもしれない、と自省する態度をなくしてしまったら、人としての尊厳を損なうような気がしてならない。

 

 

僕はカネ儲けの才能が全くない、けれど悲観はしていないという件〈再掲〉

カネ儲けの才能は、人が持つ様々な能力のうちのひとつに過ぎない。

よってカネ儲けができる才覚がなくても悲しむことはない。

しかし、現行の社会システム(資本主義体制)では殊更にカネ儲けの才能がクローズアップされる。僕は現行システムに親和的でないと諦めるより他はない。

 

初出 2018/4/5

 

僕はビンボー生活を長い間続けている。

元々が勤労意欲が低いことと、消費意欲が低いことも相まってカネを沢山稼ごう、という意欲が湧いてこないのである。

物欲を満たすために馬車馬のように働く人生なんて考えられないのだ。

自分の好きなことをして過ごす時間、自由が欲しいとは強く思っているけれども、物質的な豊かさは二の次だと考えている。

 

とは言え、僕も若い頃は人並みに物欲があり、上昇志向もあった。

また、僕には人並み以上の才能があって、人並み以上に仕事が出来るという誤った自負があった。

この誤った思い込みを抱えたままで、公務員を辞めてフリーランスとして生きていこうとしたのである。まあ何とかなるだろう、という楽観的で根拠の無い自信だけを頼りにして。

 

フリーの講師業を経て社会保険労務士事務所を開業することになるのだが、当然にゼロから始めたので最初は全く顧客がつかなかった。

幸運なことに開業して2,3年経った頃からぼつぼち仕事の依頼が増えてきて「食える」ようになった。ただ、忙しい割に実入りが少なかった。

僕は「町の法律屋」「町の人事労務屋」となることをモットーとしていたのだけれども、ことカネ儲けとなるとその路線を選択したことは正しかったかといえば自信がない。

今にして思えば、僕にはカネ儲けの才能が欠如していたというしかない。質の高い仕事をしていれば報酬は後からついてくる、といった甘い認識を持っていたのだ。単価を上げること、業務の効率化を図ること、他者との差別化を図る等の利益を最大化する戦略眼を全く欠いていたのである。

結局、IT化により自分の「専門的な業務」が陳腐化したことや僕のうつ罹患が重なって事務所を畳むことになってしまった。

 

僕はフリーランスや自営の知人や友人から経営のアドバイスを請われることが結構あったが、その際には我ながら適切な助言をしたなあ、と思っている。まあ単なる自画自賛に過ぎないのだけれども。

ただ、こと自分のことになると客観的になることができず、適切なアクションを起こすことができなかった。このことは即ち僕にカネ儲けの才能がなかったことを示している。

 

僕は自分にカネ儲けの才能がないことが身に染みて分かったわけだが、全く悲観はしていない。

たとえカネ儲けの才能が決定的に欠けていても、自分の食い扶持くらいは稼げるだろう、と確信しているからだ。この「自分の食い扶持」の必要額を下げればいいのだ。贅沢さえしなければいい(ちょっとだけの贅沢はしたいけれど)、と開き直れば何とかなるはずである。

 

おそらく僕はこの先ずっとビンボー生活を続けることになる。

このことに悲嘆するのではなく、楽しんでいこうと思っている。

貧困に陥らないような手立て、例えば人とのつながりを大切にすること、を怠らずに自分にできることは確実にしていく。

カネ儲けの才能がないことは資本主義の世の中においては結構な痛手だけれども、これを逆手に取った生き方をしていきたい。 

 

敷かれたレールから外れても、何とか生きていけるという件

僕たちは大抵は幼少時から「真っ当に」生きろという刷り込みがなされている。

きちんと学校に通い、いいとされる高校や大学に入り、一流とされる会社に就職することが良い生き方だとされていた。

敷かれたレールに乗って生きていくことが善とされていたのである。

 

一旦レールに乗るとそこから外れることに恐怖心を抱くことになる。

自分に合わない学校や会社から脱することが困難になる。

レールから外れてしまうと、悲惨な状況に陥ってしまうと思い込んでしまうのである。

確かにレールに乗り続けて、環境に順応していれば一見真っ当な生き方をしているように思える。世間から後ろ指を指されることもない。

しかしながら、レールの上から見える景色は限られた世界のものであることに思い至ることはない。

 

僕は就職するまでは何とか敷かれたレールの上を走り続けた。一度は不登校になって、レールから外れかけたがどうにか持ち直して、レールに戻って走り続けた。

けれども、雇われて働くことがどうにも苦痛になり、一旦レールから外れることを余儀なくされた。その時、正直不安や恐怖心で一杯だった。当時はまだ「真っ当に生きる」ということを狭くとらえていて、労働至上主義的イデオロギーに捉われていたのである。

 

実際に敷かれたレールから外れてみると、案外何とかなるものだった。

レールの外から見える風景も面白く興味深いものが多々あった。

単なる取り越し苦労だったのである。

世の中のほとんどのことは「何とかなる」ものである。

楽観的に過ぎるものの見方かもしれないが、悲観的になるよりはましである。

たとえお先真っ暗だと思えるような状況になっても、一筋の光は差し込んでくるものである。

 

レールから外れるようになるな、という他者からの助言は話半分で聞いておいた方が良い。そういうことを言う人は自分がレールから外れたことがない人であり、想像力を欠いた人であるからである。偏った狭量な価値観を持った人であるともいえる。

敷かれたレールの上からのみ見えるものが全世界だという思い込みを持った人の言葉に聞くべきものはない。

 

よくよく考えてみれば、人の生きざまに絶対的に正しいものなんてないのである。

レールから外れるかどうかなんて些末なものに過ぎない。

いかに自分にとって面白いか、楽しいか、ワクワクするかが大事なのである。

敷かれたレールから外れることによって、思いがけない出会いがあったり、面白いことに出会ったりすることを忘れてはならない。

レールから外れたらえらいことになる、という根拠のない不安や恐怖心こそが自分を縛る最大の障壁なのである。

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