希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「未来予測」が氾濫しているこの国はいい国だという件〈再掲〉

未来予測なんて不可能だと分かってはいても、僕たちはついつい未来予測物の著書や言説に惹かれてしまう。

不安感を払拭しようとするためなのか、どうかは僕には分からない。

 

初出 2018/1/30

 

未来のことは誰にも分からない。想像するしかない。

しかしながら、未来を予測した著書や言説が氾濫している。

先のことは分からないから安心感を得るために自称識者と言われている人たちの未来予測を受け入れている。

 

僕は未来予測ものの著書は積極的には買わないが、嫌いではない。

将来が今よりも良きものとなるような未来予測ならば、という条件付きではあるけれども。

能天気に未来は薔薇色だ、とは到底思えない。かといってディストピアが到来するといった類の未来予測も嫌だ。

人間の英知を結集して、未来は現在よりも少しずつ良くなると思いたい。

 

ブックオフでちょっとだけ古い書籍が並んでいるコーナー、特に政治・経済関連のコーナーで物色していると未来予測的な著書がたくさん並んでいる。残念ながらそれらの殆どは当たってはいない。やれ中国の体制が崩壊するだの、大恐慌がやってくるだの、日本経済が崩壊するとかいった著書が多いが、これらの予言は見事に外れている。

僕はこれらの著者が発した未来予測が外れていることを論う気はサラサラない。ネガティブな予測が外れることはいいことである。

 

一方で名の知れた識者と自称する人たちの未来予測を言いっ放しにしておいていいのか、という思いもある。著名な著者が発した未来予測を事後検証することをなおざりにしておいていいのかと思ってしまうのだ。

ある未来予測が外れて、そのことを踏まえて自分の説を変える著者もいるし、自分のした未来予測を「なかったことにして」いけしゃあしゃあと別の論を張る著者もいる。

「無責任」な著者は自然と淘汰されるのならば問題はないが、大方の著者は次々とそれらしい未来予測を発し続けている。

 

未来予測の言説は競馬予想に似ている、と僕は思っている。政治・経済・社会の未来予測は高尚なもので、競馬予想などという俗なものと一緒にするな、と言われそうだが、本質的には変わらない。

競馬の予想番組を観ていると、予想者はもっともらしい理由を並べ立てて勝ち馬の予想をする。そしてその予想は大抵は外れる。次の回では外れたことは言挙げされずに、たまたま的中したらそのことだけが言挙げされる。予想を外した人を責めたりするのは「野暮」な行為なのである。競馬予想は外れありきなのだ。

未来予測の言説も似たようなものであって、外れありきであり、たまに当たると「当たったぞ」と殊更に強調する。たまたま的中させた著者は×××を見事に予測した予言者となってさらに再生産に励むのである。

 

僕は未来予測ものはネタとして読む程度のものでいいと思っている。

その内容が面白いかそうでないか程度の判断基準でいいのではないかと思っている。

ある未来予測が外れたら、そのことに肩を怒らせて論うのは「大人」のやることではない。

未来のことなんて誰にも分かりっこないのだから。

外れてばかりの未来予測ものが氾濫しているのは、出版の自由、表現の自由がそこそこ保障されていることの証だと捉えておけばいい。 

弱い立場にある人たちを救済しないと、その共同体の存続は危ういという件

病気や加齢や失業、障害を負うことによって弱い立場に置かれた人たちを救済する、いわゆる社会保障セーフティネットについて語るとき、個人の尊厳や人権にフォーカスすることが多い。この視点の危ういところは、社会保障の拡充や整備を快く思わない人たちがすぐに自己責任論にもっていくところである。失業や病気(時として加齢や障害についても)は自分で責任を負うべきものであり、個人の救済は不要とする論である。

セーフティネットを拡充すべきという立場で語るときもついつい「個人の権利」ばかりに目がいってしまい、反対派の「権利あるところには責任が伴う」という反論に足を掬われてしまうことになる。

そこで、弱い立場にある人たちを救済する根源的な理由としては、人々が属する共同体の存続のためにはそれが是が非でも必要である、という視点から考えてみる必要がある。

 

共同体や組織を強化するためには、その成員を屈強な人、賢明な人、勤勉な人、忠誠心のある人のみで固めればいいと考えがちである。いわば「強い」人たちを集め、そういった強い人たちばかりで共同体を構成すれば完璧な共同体が作れるというわけである。

ところが、実際はそのような一見強そうな組織や共同体は危急の際には脆くてすぐに崩壊することが多い。過去の歴史はこのことを雄弁に物語っている。

共同体のシステムの内部に弱者救済の仕組みを埋め込んでおかないと、危機的状況に陥った時にそのシステムは機能しなくなるのである。

 

国家にしろ、会社にしろ地域コミュニティにしろ、人の集まる共同体では弱い立場にある人たちの居場所を確保しておくことが、その共同体の存続のための有効な戦略となる。

古代の人類の遺跡から全ての歯を失くした老人や身体に障害があったと思しき遺骨が幾つも発掘されている。現代に生きる僕たちは狩猟採集生活を送っていた古代人の社会では歯を喪失したり(固い食物が食べられない)、障害を負ったり(狩猟に参加できず、移動にもついていけない)すればそれらの人たちは見捨てられて野垂れ死にしたと考えがちである。しかし、そういった人たちの遺骨が発掘されているということは、集団の中で見捨てられずに助けられて生き永らえていたと推測される。

古代人は自分たちが属するバンドを存続させるために、一見足手まといに見える老人や障害を負った人を助けて、バンドの成員全員が生き延びることができるようなシステムを採用したのである。

そして、人は弱っている人たちを見捨ててはおけないというメンタリティを本質的には有しているのである。

 

共同体はその成員の中で最も弱く、非力な人たちであってもフルメンバーとして、尊厳を保たせながらそれぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されなければならない。このことは先人が僕たちにもたらしてくれた大いなる智慧である。

この先人からの智慧を具現化したものが、社会保障制度であり各種のセーフティネット

である。

社会保障制度やセーフティネットを権力者の都合や利権のあるなしで骨抜きにして、個人や家族に弱者救済を押し付ける所業は先人の営みを全否定する愚行である。

 

社会の中で弱い立場に置かれた人たちを救済するための制度やシステムは個人の権利を守ったり、個人の尊厳を保つためだけにあるのではない。

僕たちが属する共同体(国家・地域コミュニティ・職場・学校等)を存続させ、崩壊させないためにこそ、それらはある。

無知であることを恥と思わないと、そこで終わってしまうという件

僕は大した学歴を持っていないし、職歴も大したことはない。

人に誇れるキャリアもないくせにこんなブログを書き続けるのはいかがなものか、と時々自分に問いかける。

ダメ人間にはダメ人間なりの矜持や誇りがある、と自分に言い聞かせながらこのブログを書き続けている。決して「上から目線」にならないようにと気を付けている(たまにちょっとだけ上から目線になってしまうけど)。

 

僕が人に誇れることがあるとすると、それは知的好奇心が子どもの頃から旺盛だったという点である。学校の勉強、予習復習なんて全然しなかったけれども、親が買ってくれた百科事典や少年少女文学全集などを暇を見つけては貪り読んでいた。成績を上げることには直接つながらない学びをずっと続けていたのだ。自分の知らないことを知ることに快感を覚えていたのである。このメンタリティは今も殆ど変わらない。カネ儲けや仕事に関係ないことばかりを、社会の成り立ちや人とはいかなるものかという根源的な問いに対する答えを知りたくて学び続けている。

 

僕はカネ儲けの能力が不足していることや会社内での職務遂行能力が欠けている等々のことを指摘されても何も感じない。けれども、「無知」であることを晒されることを極端に嫌う。無知であることは最も恥ずべきことだという刷り込みがなされているのだ。

だから、「教養」というものにこだわり、それをいかにして身に付けようかということに執着している。カネにもならない知識、カネ儲けの役に立たない知識なんて不要だという考えには決して与したくない。

 

現実的にはいくら学び続けても、この世にある膨大な知の集積のごく一部しか得ることはできない。客観的に見れば、僕がいくら知識を得ようとしても、ずっと「無知」なままである。

それはそれで仕方がない。

人は有限の時を生きているのだから、得られる知も自ずと限りがある。

しかし、この社会の成り立ちについて少しでも理解できればいい。複雑に絡み合った物事をひとつずつ解きほぐす営為を続けることが重要なのである。

「無知」の度合いをちょっとだけでも低くできればそれで十分である。

自分が知らないことがあることを知ることが大切なのである。自分が知らないことがあることに何も感じないのがダメなのである。ひとつでも知ろうとする態度を取り続けることが僕のなすべきことである、と自分に課すことが僕を「無知」の沼から脱せさせることにつながると信じている。

 

繰り返しになるが、僕は「無知」であることは恥だと思っている。

さらに言うならば、「無知」であることを気付かないこと、「無知」のままでいることに何も感じないことを恥だと思っている。

知識を得て、衒学的な振る舞いにそれを利用することは最も忌み嫌うところである。

自分が得た知は楽しく面白く生きるために使いたいし、微力ながら世の中を少しでも良くするために使いたい。

僕の取るに足らない人生でも、「無知」を恥だと思うことで、ちょっとだけでも意味のあるものにすることはできそうな気がする。

 

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