希望の舎―再生編ー

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会社に雇われて働くことが当然であるという「常識」を問い直すという件〈再掲〉

会社に雇われて働くことが当たり前となったのは最近の話である。

いわば限定的な条件下で発生した状態に過ぎない。雇われて働くことがデフォルトというのは一過性のものなのかもしれない。

 

初出 2017/12/7

 

僕たちはある「システム」や「ルール」に後れて参加していて、それを自明のものとしている。

「会社に雇われて働く」ということが初期設定になってしまっている社会において、そのことを疑いもせずに当然のものとして受け入れているのだ。

確かに現況は何らかの組織(会社や役所等)に雇われて働く人が勤労者の9割近くに達していて、雇用者はマジョリティを形成している。

現行の社会システムはこの雇用者をモデルケースとして形作られている。

 

人はなぜ働くのか、という根源的な問いには唯一の正解はない。「正しい」と目される答えが幾つも存在し、僕たちは常にそれらの中から自分に「しっくりとする」ものを選んでいるだけなのだ。

人はなぜ生きるのか、人はなぜ学ぶのか、といった根源的な問いと同質のものである。

 

仮に人は働くことが当然であるという前提の下で論を進めてみる。

 

働き方は人それぞれが自分の能力や希望や目的に応じて自由に選択し得るもののはずである。時間や場所に縛られることが苦痛と感じる人は雇われない働き方を選択し、そのことによってハンデを背負うことになってはならない。

多くの人が高校や大学や専門学校を卒業して新卒として会社に採用されて働き始めることが当たり前のものになっていて、このパイプラインシステムから外れた人たちはかなりの不利益を被ることになってしまう。この事実は強固な既成事実と化していて、疑問に感じる人はそれほど多くはない。逆に真っ当とされるレールから外れた人が「異端」であり「問題がある人」とであるとレッテル貼りをして時には人格攻撃をして、「システム」そのものに疑義を挟むようなことをすること自体が憚られる雰囲気に覆われている。

 

会社に雇われて働くという形がディフォルトになったのは戦後の経済成長期以降のことに過ぎない。「総サラリーマン化社会」は普遍的事項ではなく、ただ単に資本主義体制下に生まれたひとつの存在形態に過ぎないのである。近未来にはこの「総サラリーマン化社会」が解体することもありうる。現にその兆候が局地的に表れている。

 

今のこの社会が閉塞感に覆われている要因のひとつが「総サラリーマン化社会」にあるのではないか、と僕は思っている。生き方・働き方の多様性を阻害しているのである。見せかけの「安定」や物質的な豊かさに目をくらまされているのである。

 

「総サラリーマン化社会」にはメリットもある。特別な専門知識や技能がなくても、そこそこの学校を卒業してそれなりの会社に属することができれば生活は安定する。会社や役所に寄りかかっていれば大過なく人生を過ごすことができた。

しかし、人が皆組織に属し、組織の論理に絡み取られて働くことを良しとしているわけではない。会社に雇われることによって得られるかりそめの安定よりも別の「何か」を求める人たちもマイノリティながらも少なからず存在する。

 

従来は人々は地域共同体やその他の中間団体に属し、そこに居場所を確保してそれなりに楽しく生きていけたのだ。ところが、それらの共同体や中間団体が解体され、会社がその代替物となったのである。利益集団(利害に基づいて結合している団体)に過ぎない会社というものがそれ以上の役割を担い果たす、という事態は異常であったといえる。この異常さを異常と感じない鈍感さこそがこの社会の閉塞感を作り出しているのである。

 

会社に雇われて働くことが当然である、という「常識」が果たして正しいのか、という問いをしてみることが必要であると僕は常々思っている。

その問いかけに対する正解は出ないかもしれない。

正しい答えなんて出なくても良い。

問い続ける態度こそが大切なのである。

あるひとつの「常識」に盲従することほど恐ろしいものはない。

将来のために今は我慢するという生き方を見直してもいいのでは、という件

僕のようなダラダラとした生き方をしていると「老後は不安にならないの」とか「将来苦労するぞ」といった類の忠告を受けることがある。

この手の忠告は真っ当で正しいものである。世間の人々に浸透した価値観である。

 

将来をより良くするために今は大概のことは我慢する、という考え方は僕たちが子どもの頃から刷り込まれた価値観である。

要するに享楽的に生きていてはダメだということだ。アリとキリギリスの寓話に喩えるとアリのような生き方をしなければならないということである。

確かにこのような生き方は右肩上がりの成長期には説得力があったし有効なものだった。今は経済的にも精神的にも苦しくても、将来のためになる、努力は報われると多くの人たちは了解していたのである。

 

僕も働き始めた頃はこの「将来は報われる」教の信者だった。つまらない仕事も我慢してこなし、バカな上司に従い、同僚の同調圧力に耐え続けていた。

僕が働き始めたときはバブル期であり、右肩上がり成長の幻想の残滓があったのだ。

僕が「将来はどうなってもいい、好きなようにしよう」と思ったのは、公務員を辞めた後、阪神淡路大震災に被災したからである。人はいつ死ぬか分からないということを実感したからだ。先の見えない不確定な将来のために、今を犠牲にすることがバカバカしくなったのである。

 

傍から見て享楽的に生きている僕ではあるけれども、そんな僕にも将来に対する不安はある。しかしこの不安からは生きている限り逃れられず、常に付き纏うものである。

先のことは分からないからこそ面白い、と僕はそう考えるようにしている。

また、大抵のことは何とかなると楽観的に構えている。「その日暮らし」で十分だと鷹揚に構えている。

 

人々が将来の不安を減らし、今を大切にしだすと困る者たちがいる。

支配者層やそれらにぶら下がっている者たち。不安を煽って既得権を得ている者たち。

陰謀論に与する気は毛頭ないが、人々が享楽的に生きると利益を得られない者たちが確かに存在している。

 

人はいつか必ず死ぬ存在である。

たとえどれほど財産を築いても、高い社会的地位を得ても関係なく人は死ぬ。

限られた生をどのように全うするかが最も大切なことなのである。

将来というものはあるようでないようなものだとも捉えられる。一方、「今」というものは確かにここにある。今を充実させなければ、将来もへったくれもない。

 

僕は将来のことなんかまったく考えなくてもいい、と言いたいのではない。

必要以上に将来のことを憂い、そのために今を犠牲にするのはいかがなものか、と言いたいだけなのだ。

今という時をいかに充実させるかという営為を続けることが将来にもつながる、と僕は信じている。

まあ、要するに将来のためという免罪符を設けて、今目の前にある様々なことから逃げるということはしない方が良いということだ。同時に不必要な我慢もしない方がいい。

先のことは分からないけれども、滅多に最悪なことは起きない、と開き直ってみるのも妙手だと思う。

 

 

 

 

友人なんて数人いれば十分であるという件

今の僕は人付き合いがかなり限定されている。連絡を取り合っている友人は数少ない。元々仲が良かった高校大学時代の友人たちとも疎遠になっている。

でも、久しぶりに会ったときには違和感なく昔のように接することができると確信している。友人とはそういうものである。

 

僕は「1年生になった~ら、友だち何人出来るかな」(題名は忘れた)という歌が嫌いである。友だちは多いほどよいというイデオロギーを植え付けるものだからである。

小学校や中学校で友だちが少ないあるいは一人もいないことが問題視されるという風潮はおかしい、と僕は思っている。たかだか友だちができないということだけで、その人の価値を貶めるというのは愚行である。

 

確かに友だちを作る能力は必要である。他者と自分との関係性を築くコミュニケーション能力は生きていくうえで必要とされる能力ではある。

しかし、その能力を絶対視するのもどうかと思う。人の持つ様々な能力の内のひとつに過ぎないのだ。

社会で生きていくうえで大切なことはむしろ「友人以外」の他者とうまく付き合っていく能力である。例えば会社で働いてその組織の中でうまく立ち回るにはこの能力が必要となってくる。同僚や上司は友人ではない。

また、地域社会での付き合い、サークル等での付き合いも同様である。災害に遭った時の隣人との助け合いもそうである。

僕たちが出会う人たち、何らかの関わり合いを持つ人たちの圧倒的多数は「友人ではない」人たちなのである。

 

僕は友情や友人を持つことの大切さを承知している。

利害関係を超越した付き合いほど心地よいものはない。

ありきたりなことを言ってしまうが、量より質が大切なのである。

迷惑をかけたりかけられたりする間柄で、それらのことがあっても後に尾を引かないような関係が友人であり、そのような関係性を保ち続けることができる人たちはそう多くはない。だから貴重な存在となり得るのである。

 

僕が困難な状況に陥ったとき、何度も友人たちに助けられてきた。その友人たちとは密に連絡を取っていたわけではない。風の噂に僕の苦境を聞きつけて、僕に救いの手を差し伸べてくれたのだ。彼ら彼女らは僕に見返りを求めることがなかった。友人たちがいなかったら、僕は今どんなことになっていたかと想像すると恐ろしい。

 

したたかにこの世知辛い世の中を生きていくためには、数少ないが信頼できる友人がいれば十分である。それにプラスして「友人以外」の人たちとうまく付き合う術を身に付けることである。「友人以外」の人たちとの関係性は友人のそれとは別物だと意識しておく必要がある。友人との関係性から生ずるメンタリティを「友人以外」の人たちとの関係に紛れ込ませるからややこしくなるのである。

 

友人をひとりでも多く作ろうとすることは実は有効な生存戦略とはなりえない、と僕は思っている。

友人の数は少なくてもよい。

友人たちに不義理をしないこと、迷惑をかけられても涼しい顔でやり過ごすこと、そもそも「迷惑をかけられた」なんて感じないこと、これらのことができればこの世の中をすいすいと渡っていける。

 

 

 

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