希望の舎―再生編ー

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僕が公務員を辞めた最大の理由は「安定」と「先々の保障」があると思ったからという件〈再掲〉

公務員の安定神話は未だに生きている。

僕は安定していることに価値を見出せなかった。先々の保障があるということは「先が見えている」と感じたからだ。この感覚を持つことが正しかったのかどうかは今もって分からない。

 

初出 2017/10/3

 

「公務員を辞めたネタ」は何度もこのブログで書いていて、「いつまで言うとんねん」といった感じではあるけれども、ちょっとだけ好評なので図に乗ってまた書くことにする。

 

僕が公務員を辞めた理由は幾つかあって、それらが折り重なり合った結果「ええいっ、辞めてまえ」と後先考えずに行動に出たのである。

仕事がクソほどつまらない、上司がバカばかり、役所の独特の雰囲気になじめない、と当時はそのように感じて退職に至ったのだ。

今となって気付いたことであるが、それらの理由は些末なものに過ぎない。

最も根源的な理由は、「先が見えすぎてしまった」ことである。

 

「先が見える」ことは決して悪いことではない、とは思う。

人生設計や生活設計が容易になる。生活に困窮する可能性はかなりの程度低くなる。

結婚や子育て、持ち家を所有すること、そこそこ豊かな老後生活などができる。

生活の安定と先々の保障が手に入ることは大多数の人々にとって喜ばしきことである。

しかし、そのためには前提条件がある。

それは何十年も雇われて働くことを続けなければならないし、ひとつの組織に埋もれ続けなければならないことである。「自由」を投げ出して安定や保障を手に入れるわけである。

 

公務員の給料は棒給表によって予め決められている。その棒給表を見れば自分が将来どれほどの給料を得ることができるか予測がつくのである。このことが良いのか悪いのかは考え方・価値観の違いによって変わってくる。安定を重要視すれば先の給料が分かっていることが良きものとなる。

真っ当な社会人として生きていくことを考えれば、先のことが見通せることができれば、かなりのアドバンテージとなる。

 

僕は公務員となってすぐに「自分の人生は半ば決まってしまった」と感じ、暗澹たる気分になってしまった。僕にとって「安定」と「先々の保障」は決められたレールの上を脇目もふらずに進むだけの味気ないものとしか感じられなかったのだ。

そんなことは分かり切ったこと、そんなことを言うのならば公務員なんかになるな、と言われそうだが、本当にそのとおりである。僕は大学を卒業するにあたって深く自分の職業生活のことを考えなかったのである。ただ「なりゆき」で公務員になっただけなのだ。働き始めてようやっと自分の愚かさに気付いたのである。これは自己責任である。

 

言い訳に聞こえてしまうが、僕は僕なりに良き公務員、行政マンになろうと努力をしたつもりである。けれどもやはり無理なものは無理だった。その当時は気付いていなかったけれども、僕は雇われて働くことができない、そのことがとても苦痛に感じるタイプの人間だったのだ。安定や先々の保障といったことは僕にとっては何の慰みにもならなかったのである。

 

何度もこのブログで言及しているが、僕は「安定」なんて幻想だと思っている。「先々の生活保障」についても砂上の楼閣だと思っている。この考え方が正しいのか否か僕には分からない。おそらく間違っているのだろう。

しかしながら、僕に取り憑いたこれらの考え方・価値観を変えようとも思わない。

人生に安定なんかない、先のことは分からないということを常に念頭に置いて自分の生き方を模索し続ける、という行動様式はこれからも変わらない。

 

 

 

 

僕はカネ儲けの才能が全くない、けれど悲観はしていないという件

僕はビンボー生活を長い間続けている。

元々が勤労意欲が低いことと、消費意欲が低いことも相まってカネを沢山稼ごう、という意欲が湧いてこないのである。

物欲を満たすために馬車馬のように働く人生なんて考えられないのだ。

自分の好きなことをして過ごす時間、自由が欲しいとは強く思っているけれども、物質的な豊かさは二の次だと考えている。

 

とは言え、僕も若い頃は人並みに物欲があり、上昇志向もあった。

また、僕には人並み以上の才能があって、人並み以上に仕事が出来るという誤った自負があった。

この誤った思い込みを抱えたままで、公務員を辞めてフリーランスとして生きていこうとしたのである。まあ何とかなるだろう、という楽観的で根拠の無い自信だけを頼りにして。

 

フリーの講師業を経て社会保険労務士事務所を開業することになるのだが、当然にゼロから始めたので最初は全く顧客がつかなかった。

幸運なことに開業して2,3年経った頃からぼつぼち仕事の依頼が増えてきて「食える」ようになった。ただ、忙しい割に実入りが少なかった。

僕は「町の法律屋」「町の人事労務屋」となることをモットーとしていたのだけれども、ことカネ儲けとなるとその路線を選択したことは正しかったかといえば自信がない。

今にして思えば、僕にはカネ儲けの才能が欠如していたというしかない。質の高い仕事をしていれば報酬は後からついてくる、といった甘い認識を持っていたのだ。単価を上げること、業務の効率化を図ること、他者との差別化を図る等の利益を最大化する戦略眼を全く欠いていたのである。

結局、IT化により自分の「専門的な業務」が陳腐化したことや僕のうつ罹患が重なって事務所を畳むことになってしまった。

 

僕はフリーランスや自営の知人や友人から経営のアドバイスを請われることが結構あったが、その際には我ながら適切な助言をしたなあ、と思っている。まあ単なる自画自賛に過ぎないのだけれども。

ただ、こと自分のことになると客観的になることができず、適切なアクションを起こすことができなかった。このことは即ち僕にカネ儲けの才能がなかったことを示している。

 

僕は自分にカネ儲けの才能がないことが身に染みて分かったわけだが、全く悲観はしていない。

たとえカネ儲けの才能が決定的に欠けていても、自分の食い扶持くらいは稼げるだろう、と確信しているからだ。この「自分の食い扶持」の必要額を下げればいいのだ。贅沢さえしなければいい(ちょっとだけの贅沢はしたいけれど)、と開き直れば何とかなるはずである。

 

おそらく僕はこの先ずっとビンボー生活を続けることになる。

このことに悲嘆するのではなく、楽しんでいこうと思っている。

貧困に陥らないような手立て、例えば人とのつながりを大切にすること、を怠らずに自分にできることは確実にしていく。

カネ儲けの才能がないことは資本主義の世の中においては結構な痛手だけれども、これを逆手に取った生き方をしていきたい。

 

結婚して、持家を買ってこそ一人前という風潮が未だ残っているという件

40歳を超えたあたりから親や親戚から「結婚はまだ?」と言われなくなった。

もう諦めたのだろう。生き方の多様化という社会の流れも関係しているのかもしれない。僕にとっては喜ばしいことである。

しかし、世間ではそうはいかないようだ。以前のいくつかの勤め先で僕が独身だというと怪訝な顔をされたことは一度や二度ではない。さらには「まだ遅くはない、早く結婚すれば」とありがたい助言をもらったことも、これまた一度や二度ではない。

どうやら僕はこの歳になってもまだ「一人前」とは認められていないようだ。

 

僕も若い頃は結婚するのは当然だと思っていた。結婚して子どもができたら、家を買うのが当たり前だと思っていた。「社会人」として「一人前」になるための登竜門だと考えていたのである。

当たり前の話だが、結婚するかどうかなんて全くの個人の自由である。結婚したくても様々な事情によりできないこともあるし、元々結婚なんて真っ平御免だとして積極的に結婚しないということもある。いずれにせよ、他人からとやかく言われる筋合いのものではない。

 

以前にある都市銀行に勤める友人から聞いた話であるが、その職場では未だに未婚者は出世しにくいらしい。役職を得る前提の条件として結婚があるとのことだった(今は変ってきているとは思うけど)。

結婚して、さらには住宅ローンを抱えた社員は会社からすると統制しやすくなる。ちょっとやそっとのことでは会社を辞めないし、会社からの無理難題にも素直に従うからだ。会社が社員を管理しやすくするために結婚を勧めて、ローンで家を買うことを勧める。社員を会社に縛り付け、従属させるための手段となっているのである。

 

結婚してこそ一人前、持家を持ってこそ一人前という考え方は決して間違っているわけではない。それらは「自立」の証と言えるからである。

しかしその一人前となるためのハードルが昔よりもかなり上がっている。

社会状況や労働環境等が不安定化し、安定した生活を営める層が減っている。

ならば、現状に合わせて「一人前」の基準を下げるべきではないか、と僕は思っている。結婚して、持家を持ってこそ一人前とされてしまうと、僕は半人前のまま一生を終えてしまうことになる。これはかなり口惜しい。

働いているなら非正規雇用でもいい、何らかの公的な扶助を受けているならそれでもいい、何らかの形で生活を営んでいればそれで一人前としてもいいような気がする。

 

僕は結婚幻想、持家幻想を全て壊してしまえ、と言いたいわけではない。

結婚も自分の家を持つことも幾つもある人生の目標のひとつとしてとらえる程度のものでいいのでは、と言いたいだけなのだ。そのくらいの「ゆるさ」や「ゆとり」のある生き方を認める方が多くの人たちが生きやすくなると思う。皆が皆、かっちりとした「あるべき生き方」を目指すなんて世の中はとても息苦しくなる。

結婚をしたい人・できる人は結婚すればいいし、持家を買えるだけの経済的余裕がある人は買えばいいだけの話である。それらができる人たちだけが「一人前」ではない、というコンセンサスが成り立つ世の中になってほしい、と僕は願うだけである。

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