希望の舎―再生編ー

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ダメ人間だと自覚すればするほどワクワクしてくるという件〈再掲〉

僕は自他ともに認めるダメ人間である。以前はダメ人間呼ばわりされると怒り、傷ついたのだが今はどうってことはない。

ダメ人間にはダメ人間なりの矜持がある。それだけは忘れないでおきたい。

 

初出 2017/7/6

 

僕はダメ人間だと自覚している。このブログでも何度も自分のダメさ加減を書いている。人から「いやぁ、ダメ人間なんかじゃないですよ~」とかなんとか言われたいとは思ってはいない。

でも、「あんたは無価値な人間」だとか「下劣な人間」とか言われるととても腹が立つ。ダメ人間であっても、人としての尊厳とか矜持とか誇りなんかには敏感なのである。

 

僕は40代のはじめの頃まで自分を高付加価値のある人間だとか役に立つ人間だとかにしようとあくせくしていた。他者から優秀な奴、できる奴と見られたかったのだ。常に理想と現実とのギャップに苦しめられていた。現状を打破しようともがいていた。

あるときふいに「どうでもいいや」と開き直ることにした。成長至上主義的な考え方を拒否することにした。やりがいのある仕事なんて幻想にすぎないし、人は仕事によってのみ成長するなんてありえないとの結論を得るに至った。全くのひとりよがりな考え方だけれども。

 

自分のことをダメ人間だと規定することは全然悲しいことではない。ただし、自己肯定感を持ったままでなければならない。自己否定を伴ってダメ人間であると自分を規定してしまうとドツボにはまることになる。ダメ人間ではあるけれども、ちょっとは見どころがある、この世の隙間で存在し続けてもよい、と自分の存在を肯定する気持ちを持つことがキモである。

世間で言うところの真っ当なレールからは外れているけれども、谷底には落ちていない。レールの周りに広がる平原を自由に彷徨しているだけなのだ。

 

自分がダメ人間であることを自覚し、自分に対する期待値が低いと現実に押しつぶされることがなくなる。

他者からの評価に気を揉んだりする必要はない。世間からの同調圧力にさらされても、どこ吹く風と受け流す。真っ当とされる生き方、こうあるべきだという生き方なんて所詮は多数派の人たちが勝手に作り上げた幻想に過ぎない。多数派が常に正しいとは限らない。

もし、誰かが僕のことを嘲るのならば、好きなようにさせておく。可哀想な奴だと同情しながらも。

人が人の生き様にあれこれ口出しすることは筋違いであり愚行である。

 

僕はダメ人間であるがゆえに持つことができたものの見方というものを大切にしたい。

世間で流布している常識や良識といったものの根拠が実は確固としたものではないこと。

真っ当とされる生き方や働き方なんて、支配者層にとって都合のよいものに過ぎないこと。

ひねくれたものの見方が時として本質を衝くことだってあるのだ。

 

ダメ人間として生きていると面白いことにたくさん出会う。

少々の悩み事なんて笑い飛ばせてしまう。そもそも悩むこと自体がそんなにない。

僕はもっともっとダメ人間を極めたい。

 

 

誰かから頼られてこそ人は成長するという件

僕は「自己実現」であるとか「成長」という言葉があまり好きではない。

そこには何やら胡散臭さを感じるからだ。

自己実現とか成長というものが、仕事に限定したものであったり、自己利益の極大化しか念頭に置いていないものだと感じられるからである。

 

人は自分の利益しか眼中になく、その自己利益の増大のみに注力したときには限界があるのでは、と思えて仕方がない。

人の欲望には天井がない。欲望の充足ばかりを追求するといつかはその虚しさに気付くときが訪れる。たとえどんなに富を得ようとも、社会的地位を名声を得ようとも、そんなものは「空」なのである。

 

資本主義体制、特に新自由主義的なイデオロギーでは、自己利益を追求することが善とされている。自己責任・自己決定で「個」の利益を追求し、カネを多く得たものが正義なのである。

このような考え方は絶対的に正しいものではない。また決して悪でもなく、間違っているというわけでもない。現行の経済システム下で「まとも」に生きていくのならば、ある程度は受け入れなければならない。

 

僕もかつては自己利益の拡大に奔走することが正しい生き方だと思っていた。家族・地域共同体のしがらみから逃れようとばかりしていた。自分ひとりが努力し、自己実現を果たすことが自分らしい生き方だと思い込んでいたのだ。

自分の持つなけなしの能力を最大化し、スキルを磨き、その結果としてカネをより多く稼げるようになって社会的地位を高めることが自分のあるべき姿だとの確信を持っていた。

この確信は脆くも崩れ去った。

たとえ僕が「成功」を収めていようとも、自己利益の極大化を果たしていたとしても、僕はその状況に虚しさを感じていただろう。

 

今から思い返せば、僕が充実感を覚えたのは誰かから頼られて、その課題を解決しその誰かから感謝されたときである。報酬の多寡は問題ではない。自分ひとりのためではなく、「誰かのため」に尽力したときに喜びや快感を覚えたのである。

 

あるいは自分の属する共同体、例えば会社や役所の組織において自分の役割を果たし、共同体の存続・発展に自分が関わったと実感を得られたときに充足感を覚えることができたのである。

僕は雇われて働くことが嫌だと公言しているが、それは自分の働きが共同体のためになったと実感する機会が少なかったことにもよる。

僕は組織の論理に絡め取られることを潔しとしない、とも公言している。一方で自分の属する共同体の存続・発展のために力を尽くすことは快感につながることも知っている。この両者のバランスを取ることは難しい。共同体の利益がイコール自分の利益だという思考に陥るのは危険であるとも承知している。

共同体の利益のためにどれほどの自己犠牲を強いられるか、それをどこまで我慢できるかによって状況は変わってくる。自己利益の極大化のみを目的として共同体においての自己の役割を果たし続けると齟齬を生じることになる。会社人間や社畜とされる人たちは組織の論理に絡み取られながら自己利益ばかりに目を向けている人たちである。

 

自己利益のためだけではなく、誰かに頼りにされ、他者のために行動することによって人はより成長する、と僕は思っている。

人が仕事によって成長するのは、様々な人たちとの関わり合いの中で、それらの人たちに頼られて、様々な課題や問題を解決するために自分の役割を全うし続けることによって得られるものがあるからである。

この共同体の存続・発展のための営みは会社人間や社畜と呼ばれる人たちの営為とは似て非なるものである。

 

 

今年も生き延びることができたことに感謝、という件

僕みたいなオッサンになると年の瀬を迎えても特段の感慨はない。

ああ、また歳を取るな、と言った程度のものである。

新年を迎えてこういう年にしたいという思いもあまりない。

 

とはいえ、新年を迎えるということになると、ちょっとだけ気が引き締まる思いがするのは、僕も平均的な日本人だということだ。

僕は特段「新年の誓い」みたいなものは立てない。

ただ、「今年も何とか生き延びることができますように」というハードルの低い誓いを立てるだけである。

雨宮処凛さんのエッセイにこれと似たようなことが書いてあった。「とりあえず死なないように」という低いハードルを自分に課せば生きやすくなるという。

僕も全く同意見である。

自分にあまり期待をかけない、そして負荷をかけないようにする、ということはなかなか良い生存戦略である。生き延びさえすれば、面白いことや楽しいことがあるかもしれない。胸を震わすような感動的な出来事なんてなくても構わない。ちょっとした喜びや楽しみがあれば、それで十分である。

 

日々の生活の中に面白いこと、ワクワクすることを見出せるような生き方を続けていきたい。

嫌なことはできるだけしないようにしていきたい。

人と比べるようなことはしない。

生き方のハードルをできるだけ低く設定して、僕は面白おかしく日々を過ごしていきたい。

僕が今望んでいるのはこれらのささやかなことだけである。

そして、何とか一年間生き延びることができたことについてただ感謝している。

年末年始にあたって思うことはこれだけである。

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