希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

道徳教育や心の教育をという掛け声にどこか胡散臭さを感じるという件

人は社会的な生き物である。

人はひとりでは生きていけず、様々な人と関わり合いながらどうにかこうにか生きていける。

当たり前のことである。

人が共同体の中で暮らしていくためには様々なルールが必要となってくる。この社会規範として法があり宗教規範があり道徳がある。

 

僕たちがスムーズに社会生活を営むためには各人それぞれに道徳心や公共心が必要なのは言うまでもない。

人それぞれが己の好き勝手放題に振る舞えば共同体は壊れてしまう。

したがって共同体の一員として生きる僕たちにはそのためのルールがどうしても必要となってくる。そこで道徳の登場となり、そのベースとして心の教育が必要ではないかとの声が出てくるのである。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども、「上から」道徳心が大切だの心の教育を充実させよだのといった声が大きくなったとき、そこにはエスタブリッシュメントの邪なものが隠されているのである。

一例としては「家族を大切に」といった類の言説が幅を利かせ出すと、社会保障費の削減が意図されている。国家や自治体が生存権の保障という最も大切な権利の実現を蔑ろにするのである。そのために「家族」に責任を負わせるためのスローガンを創り出すのである。家族なんか不要であるといった極端なことを言う人は皆無である。

 

昨今話題となっている教育勅語のどこが問題なのかというと、その内容自体ではなく、その作成の過程や意図が問題なのである。教育勅語天皇が「臣民」に対して親を大切にしろとか隣人と仲良くしろとか国家の危機には一丸となって戦えとか「上から」人々の価値観を一方的に決めてしまうところに問題があるのだ。西洋から流入しはじめた個人主義的な価値観が蔓延することに危機感を覚えた時の政府が勅語という形にして思想統制を図ろうとしたものなのである。

上からの道徳教育や心の教育は思想統制以外の何物でもないのである。

 

人は他者に危害を及ぼさない限り、どのような考え方をしても構わない。思想・良心の自由であり、これは憲法で明文規定された自由権のひとつである。自由権の中でも侵してはならない重要な権利である。

思想・良心の自由は憲法の規定以前に、人として最も尊重されるべきものである。ところが支配者層がこの自由を抑圧しようとしてきた歴史がある。支配下にある人々が自由にものを考えて、自由に生きようとすることが支配者層にとっては誠に都合が悪いのである。

民主政という政治システムを採用し、人権思想が普及して一見思想・良心の自由は保障されるようにはなった。しかし、潜在的に支配者層は民衆の思想を統制したいという邪な願望を持ち続けているのである。

 

道徳心や心の持ちようなどは人との関わり合いの中で自然に育まれるのである。こういった場面ではこのような態度を取らなければならない、こんなことをしては非礼になる、といった感じのことをひとつひとつ身に付けるのである。親や兄弟姉妹や叔父叔母から、隣人から、友人から、学校の先生から、職場の上司先輩同僚から、その場面に応じたルールを学んでいくのである。この「学び」で十分なのではないか。国家が「あるべき人物像」を勝手に作り出し、それに適った人を強制的に作り上げることなんてあってはならないことである。

 

耳ざわりの良い心の教育、道徳など胡散臭いものだとして一歩引いた態度を取り、その裏にある邪悪なものを感じ取る感性を失ってはならない。

「つまらない仕事なんかない」とは経営者のたわ言に過ぎないという件〈再掲〉

どんな仕事も尊いなんてキレイ事である。

社会の底辺を支えている仕事に従事している人たちに皆が敬意を表しているか、という問いに「そうだ」と断言できるのか。

仕事に格差はある、しかしそれは時代とともに変わる相対的なものに過ぎない。

 

初出 2017/6/29

 

世の多くの仕事はつまらない仕事である、と僕は思っている。

これは全くの僕の個人的な意見である。この世のどの仕事も意味があってかけがえのないものである、という意見もある。これはこれで正しい。ただ、「僕にとって」つまらないと感じられる仕事が多いのだと言いたいだけなのである。

 

どのような仕事がその人にとって面白いかつまらないかは人それぞれであって明確な答えはない。

人の適性はそれぞれで異なっているので、要は自分にマッチしているかいないかの問題となる。人によってはつまらないと感じられる仕事であっても他の人にとっては面白く感じられるということはよくあることだ。

僕が嫌なのは経営者や上司が「つまらない仕事なんてない。だからどんな仕事でも喜んでやれ」という物言いである。

 

実際問題としてやりがいがあって楽しくて仕方がないというような仕事なんてほんの一握りである。そのような仕事をすることができている人は幸運であり幸福である。

大多数の人たちはたいして面白くもない仕事を生活のために仕方なくやり続けている。その面白くない仕事の裡にささやかな達成感等を見出して自分を奮い立たせながらどうにかこうにかやり続けているのである。

 

自分が就いている仕事が面白いかつまらないかは自分で決めつけてよいものである。他人がどうこう言う筋合いのものではない。

成功した経営者やビジネスマン(本当は「労働者」だがそれを認めたくない人種)が書いた自己啓発本なんかで「つまらない仕事なんかない」といった類のことが良く書かれている。それは自分が結果的に運よく社会的に成功したから無責任に言えるのである。つまらない下積み的な仕事も役に立ったと尤もらしい物言いをするのである。自分たちがたまたま成功し、その経験を一般論に帰するのは無意味である。

特に経営者は労働者が自分の仕事がつまらないと感じて勤労意欲をなくせば搾取できなくなり会社の利益が減ることを案じているだけなのである。そのためにつまらない仕事でも喜んでやるべきだという下らないイデオロギーもどきー勤勉が美徳だとかつまらなく見える仕事にも意味があるといった類のーを蔓延らせようとするのである。

 

世のサラリーマン(労働者と言った方が良いが)は自分がやっている仕事がつまらないと感じながらも歯を食いしばって職責を全うしようとしている。そんなサイレント・マジョリティの生き様を上から目線で断罪することは許されることではない。

この社会は決して面白くもない仕事を責任感をもって遂行している人々によって成り立っている。

僕はそういった物言わぬ人々はかけがえのない人たちだと思う。

ただ、いつまでも「物言わぬ」人たちでい続けることはどうだろうと思う。サラリーマン根性に骨の髄まで侵されてはならないと思うし、会社に全面的に隷従する生き方はどうだろうとも思う。

 

今は「物言わぬ」人たちは「つまらない仕事なんかない」なんて経営者や成功者が勝手にほざいているたわ言だと突き放してみる態度を身にまとい、「抵抗の精神」的なものを常に持ち続けて、隷従に抗うような生き方や働き方を模索し続けてもよいはずだ。

 

 

「取り越し苦労」なんてしすぎない方が良いという件

この先どうなるかなんて誰にも分からない。

分かり切った話である。

しかしながら、予測がつかない未来のことについてあれこれと考えて「取り越し苦労」をする人が多い。

一方で今の状況が過去の時点においての未来予測の内容と食い違っていることが殆どである。未来なんて予見不可能なものである。

 

取り越し苦労は未来予測が可能という前提の下で成り立っている。

老後の生活を若い時分から心配して老後資金はいくら必要なのかと気を揉む。

今の楽しみを放棄しても将来のために我慢を重ねる。

今勤めている会社にずっと働き続けられるのか分からない、リストラされるかもしれないと恐れて自己啓発に励む。

未来予測は不可能だと頭では分かっていもついつい取り越し苦労をしてしまう。

このジレンマはなぜ起きるのか。

色々と要因はあるけれども、そのひとつとして「不安感」を払拭したいと切望するからである。将来の見通しが立たないと人は不安になる。その状態に耐えられないのだ。

 

ビジネスの領域では、ネガティブな未来予測を立てて、そのリスクに備えることが善とされている。リスク・マネジメントができない会社あるいは個人はビジネスの能力に欠けるというレッテルを貼られるのである。

確かにリスクに対する備えは必要である。リスク・マネジメントができない会社には未来がないと言われている。

しかしこのことはあくまでビジネスの世界での話であって、人の生き方・生き様にすべてを適用することはできない。

 

とはいえ、人は取り越し苦労をすることによって生き延びてきたことは否定できない。分かるはずもない未来についてあれこれと思いを巡らせ、その度ごとに最悪の事態を回避してきたと言える。

他方で取り越し苦労をすることによって行動の選択の幅が狭まり、それによって自分の行動が縛られがちだとも言える。

取り越し苦労という思考法・行動様式は取り扱いが難しいものなのである。

取り越し苦労を全くしない人はただの能天気であり、それをやりすぎると極度の心配性となる(時として神経症的になる)。

 

今のこの世の中で僕たちは取り越し苦労ばかりをさせられて生きている。

個人の性格や資質によって取り越し苦労の度合いも変わってくるのだろうが、やはりこの社会のありようによってそれの度合いが決することが多いと思う。

いつのどの時代においても人は程度の差こそあれ「取り越し苦労」をしてきたはずである。人が作り上げた社会というものは不確定要素が多すぎて、その社会の中で生き延びていくためにはできないとは分かっていても常に何らかの未来予測をしてきたのである。

 

僕たちはこれからも(社会がどのように変化しようとも)「取り越し苦労」をし続けなければならないのかもしれない。

良いように言えば、取り越し苦労をするということは生きている証なのである。

しかし、ものには限度がある。

取り越し苦労ばかりをしすぎるのもどうかと思う。

先のことなんて分からないけれども良い意味でも悪い意味でも「なるようにしかならない」と開き直るメンタリティをもっと持ってもいいのではないかと思えてならない。

そして大抵の場合は「なるようになって」、「何とかなる」ものである。

楽観的に過ぎる考え方かもしれないけれども。

 

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