希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人を見かけだけで判断するな、というのは果たして正しいのかという件〈再掲〉

人を見かけだけで判断してはならない。正論である。

人は見かけ、第一印象が大切である。これも正論である。

見てくれだけが立派で中身のない人なんて幾らでもいる。

僕たちは見かけに騙されやすい、という事実を知っておくだけで十分である。

 

初出 2017/5/2

 

僕たちは無意識の裡に人を見かけで判断している。

第一印象が後々まで尾を引くという話もある。

ぱっと人を見てその人が信頼に足るのか判断するというのは元々人に備わった本能なのかもしれない。

 

「見かけ」というのはその人のルックスやスタイルの良しあし、美醜だけを指すのではない。身なりや物腰などの方が重要な判断基準となることが多い。相手が清潔感のある服装をしていれば何となく安心するし、柔らかい物腰の人であれば何となくこの人はいい人だなと判断する。正確なエビデンスがあるわけではないが、そのように人を見極めるのである。

ある人に対する見かけによる判断は後々付き合っていくとそれが合っていることもあれば誤っていることもある。つまり、人を見かけで判断することは正しいとも言えるし、見かけだけで判断することは正しくないとも言える。

まあ、当たり前の話ではある。そう単純にある人の人となりは他者には分かるはずはないからである。

 

しばしば見受けられる言説として人をその装飾品や持ち物で判断しろ、といった類のものがある。自己啓発系の著書に多い。

「男は腕時計と靴を見て見極めろ」とかつては言われていた(今もそうかもしれない)。僕はこの手の言いぐさが大嫌いである(とは言いながら足元には気を付けていたけれども)。どんなに品性下劣な輩でも、カネを出しさえすれば見栄えの良い腕時計や靴を身に付けることができる。一方でたまたま今はカネがなくて見栄えの良い靴を買えない人もいるし、元々が身なりに無頓着な人もいる。深く付き合わなければその人の品性は分からない。相手の身に付けているモノによってその人を判断できるという考え方は底が浅い人間観を露呈している、と僕は思う。

 

詐欺師は一見立派な自宅や事務所を構え、高価そうな服装をして相手を騙すという。スーツを着て泥棒に入る窃盗犯もいる。

これらはいかに人が見かけに騙されるかを物語っている。

 

人を見かけで判断するということは、その見かけによって偏見を持つことである。

偏見を持つことは良くない、これは正論である。

しかしながら、人は誰でも偏見の塊である。

公明正大に偏見なしに生きていくことはとても難しい。

僕たちは常に偏見を持っていることを自覚しつつ、その偏見を払拭するような努力を忘れないようにする、という態度で事に当たるしかない。

となると、人を見かけだけで判断してはいけないぞと思いつつ、ある程度は見かけで判断してその後の関わり合い方を決定するという態度を取り続けることがベターな方法であるといえる。

 

僕としては、見かけだけでダメな奴と見られるのは面白くない。

相手を見かけだけで判断してその後の関わり合い方に悪い影響が出るのも避けたいところだ。

でも、見かけの第一印象が良い意味で外れた時の楽しさ、嬉しさは何事にも代え難い。

僕も良い意味でのそのような見かけ・第一印象から「外れる」人となることができれば、こんなに面白いことはない。

 

 

 

 

  

サラリーマンの世界に閉じこもることはとても危険だという件

僕はこのブログでサラリーマン根性に浸かった人たちはダメだと言ってきた。

僕がサラリーマン稼業ができないというルサンチマンによってサラリーマン的生き方を否定しているという面はある。同時に世のサラリーマン諸氏に敬意を抱いている。毎日、面白くもない仕事を生活のために延々と続けることは精神力を要することである。

 

このエントリーでも、やはりサラリーマン根性にどっぷりと浸かることは危ないよ、といったことを言いたい。

一般的にサラリーマンは「横」しか見ていない。

自分が勤めている会社以外の世界を見なくなる。せいぜいが同業他社しか見ない。その背後にも世界が拡がっているということが想像できなくなるのである。

会社の上司や同僚、仲間内が世界の全部と捉えている人たちは自分がもっと大きなネットワークの中にいるという認識が欠落するのである。

 

僕が嫌だなあと感じるのは閉じた限られた世界で充足しているサラリーマンが、偏った価値観に基づく全能感を持ち、「外の世界」にいる人たちを見下すことである。

サラリーマンの世界の周縁にいる人たち、例えばフリーターやニートフリーランスの人たちを真っ当ではない生き方だと決めつけて、優越感を持つことである。

長らく「外の世界」で棲息する僕は肌感覚でこのことをひしひしと感じている。

 

僕がサラリーマンだった時、「外を見る」ことができなかった。

自分が属する閉じた世界の中で、いかに自分がどのように立ち回るしか考えていなかった。

サラリーマンを続ける期間が長くなればなるほどその行動様式や特性が深化する。

 

世のサラリーマンがすべて前述のような行動様式や思考様式を備えているわけではない。「外の世界」にネットワークを広げて、想像力を働かせている人たちも多くいる。

サラリーマン的思考から逸脱したサラリーマンも多くいる。

そういったアウトサイダーが報われているか、といえば疑問である。

元々この国の会社組織は疑似家族、疑似村落共同体的な性質を色濃く有していた。

今もその残滓はあるように思う。

そのような組織は同一の価値観を持つこと、均質化への同調圧力が強くなる傾向にある。

 

今は日本的な雇用の特質であるとされてきた終身雇用や年功序列が大きく揺らいでいる。しかし、サラリーマン(特に大企業や役所の正規社員・職員)は安定しているという幻想は残っている。その幻想に安住したい人たちがサラリーマン根性を植え付けられるのである。全くの僕の独断的な考えであるけれども。

 

サラリーマンである限りは程度の差こそあれ生活は安定する。

その安定を維持するための営為を否定すべきではない。

しかしながら、そのことばかりに気を取られていると何か大切なものを失うかもしれないし、取り返しのつかないことになる危険性もある。

では、どうすればいいんだと問われても、僕には明確な答えはない。

ただ、そう感じる、としか言えないのである。無責任に思われるかもしれないけど。

全面的な解決にはならないけれども、「自律性」を持つこと、「外の世界に対する想像力」を持つこと、「個」としてネットワークを広げる、といったことで対応するしかない、と僕は思っている。

「みんなと同じ」ことをしていても、そこにはかりそめの安心感しか生まれないという件

僕は子どもの頃から天邪鬼である。

みんなと同じことをするのが何となく嫌だった。別に目立ちたがり屋だったわけではなく、信念があったわけでもない。ただ、単にみんなと同じことが面白くなかっただけなのである。

でも、信念があっての行動様式ではなかったので、同調圧力に負けたことの方が圧倒的に多い。学校に通い(不登校はしたけれども)、高校・大学に進学し新卒で就職した。

心の奥底ではみんなと同じことなんてしたくない、と思いながら何となくみんなと同じようなコースをたどって真っ当な大人になろうとした。

 

僕が勤め人、社労士事務所を営んでいた頃は天邪鬼が薄まっていた時期であった。みんなと同じように少しでも多くのカネを稼ごうとし、社会的地位を上昇させようとあくせくとしていた。

みんなと同じようなことをしていると確かに安心感があった。

意に反したつまらない仕事をしていても、みんなも同じようなものだと自分を慰めることができる。自分だけが特別なのではない、みんなもしんどいのだと逃げ道を用意することができた。

この安心感は「かりそめ」のものに過ぎないと今となってはそう思う。

 

みんなと同じことをすること、つまりマジョリティに属しマジョリティが向かっている先が正しいとは限らない。

例えば、正社員としてできるだけ大きい会社に勤めるという生き方が絶対的に正しいものではない。結婚をして子を育てることにしても同様だ。「個」として完全に自立し、自己責任の下で生きていくことにしてもそうである。

これらは真っ当とされている生き方であるのは確かであるが、皆が皆そうあるべきであるというイデオロギーと化してしまうと息苦しい社会となる。

 

僕はみんなと違う方向へ突き進むということは有効な生存戦略である、と今は思っている。

ただ何となく多数派に属し、流れに身をゆだねる生き方は楽には楽であるが、それで幸福感が得られるかと問われれば疑問である。何より面白くない。

みんなと違うことをすると孤独感に襲われることもしばしばあるだろうし不安感から逃れられない。

しかしながら、みんながどっと集まる集団では不毛な競争が延々と繰り広げられるおそれがある。結果、ひとにぎりの者だけが殆どの資源や利益を奪い、残りの大多数の人たちは持たざる者となってしまうということにもなりかねない。

みんなと違う価値観を有し、みんなとは別の領域でなすべきことをなす、という生き方を選択すれば生き延びる確率が高くなるような気がしてならない。あくまで僕の希望的観測に過ぎないけれども。

 

僕は「かりそめの安心感」と不安感や孤独感がありながらも自分なりに生き延びることができるという生存戦略では後者をためらいもなく選択する。

僕の天邪鬼な性向はずっと変わらないし、変えたくない。

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