希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

弱い者いじめが蔓延するこの社会のどこに明るい未来を見出せばよいのかという件

学校でのいじめによる自殺事件が後を絶たない。

会社でのパワハラ、いじめも同様である。

この世は「強きを助け、弱きを挫く」というメンタリティを持った人たちばかりなのかと暗澹とした気持ちになることがある。

 

ただ、弱い者いじめが起きる原因を個々人の資質やモラルばかりに求めても意味がないことである。身も蓋もない言い方をすれば、人という生き物は自分より弱い者を見つけ、弱い者を虐めたがる性を持っているものなのである。

そんなどうしようもない人間は自分の弱さや醜さを覆い隠すために共同体を作り、その共同体の中ではしてはならぬことを決め、その禁を破ったものに罰を課すようになったのだ。自分よりも弱い者は助けなければならない、というきまりが存在するのは共同体の維持のためにはどうしても必要だからなのである。

 

人と人とが助け合って生きるためには弱い者に手を貨さなければならない、と分かってはいてもなぜ弱い者いじめが社会に蔓延するのだろうか。

人の本性によるものであることは明白である。

人の流動性の低い「閉じた」共同体では「生贄」的な人が必要となり、特定の人に対する攻撃によってその共同体の内部での結束が高まることもある。

そうなるとこの社会では決して弱い者いじめがなくならないことになる。

 

学校や会社等の閉じた集団ではどうしてもいじめが起きることになる。

だからといっていじめが起きるのは当然だとして放置しておいていいわけではない。しかし、いじめはいけないことだ、いじめをなくすべきだという掛け声だけではそれはなくならない。

弱い者いじめ自体を根絶させることはできないと考えて、そのことを前提として対策を講じるより他に手立てはないように思う。

人の本性は変えることはできない。社会を成り立たせているシステムは変えることができる余地がある。有体に言えば「逃げ道」が幾つもあれば最悪の事態は免れることになる。逃げることは良くない、という悪しき根性論・精神論を排して現実的な手立てによっていじめによる被害を最小限に留めることを考えるべきだと思う。

 

僕たちはちょっとしたきっかけでいじめの被害に遭うことになる。

絶対に安全な人なんてほとんどいない。

自分が所属する共同体内部で些細な人間関係の機微でいじめたりいじめられたりすることになる。その共同体内部での力関係が少しでも変化すれば立場は変わる。その共同体に留まる限り立場に変化がなさそうだとすれば、共同体から脱出するしか手がない。

昔のムラ社会なら共同体から抜け出る術は殆どないが、現代は自分の所属する共同体を選べる時代である。ただ、その一見選べる共同体が「閉じた」ものか「開かれた」ものかが問題となる。

 

開かれた共同体ならばいじめは起きにくいし、もし起きても出入りが自由なので何とかなる。人間関係が澱のようにならなければ陰惨ないじめは起きにくい。

ひとつの共同体に縛られることがなければ、自由に数多ある共同体を行き来できる状況にあれば、いじめによる被害は抑制されることになる。

ただし、共同体を自由に移動できるということは個の確立が求められるし自己責任を求められる。共同体に寄りかかった生き方ができなくなるのだ。このことを良いことと取るかどうかは個々人の価値観に依る。

いじめのリスクがあるが濃密な人間関係かいじめのリスクが低いけれどもドライな人間関係か、どちらが良いのか僕には分からない。極端な二者択一的なとらえ方自体が誤っているのかもしれない。

「いじめがあっても、何とかやり過ごせて、楽しくやれる」そんな社会がいい、としか僕には言いようがない。

 

 

資本主義体制は「弱者」を次々と生み出すことによって成り立っているという件

資本主義体制下では持たざる者と持てる者との格差は拡大する。弱肉強食、優勝劣敗が資本主義に内在しているためである。

ただ、格差を放置していると社会不安を招く。かつては社会主義共産主義革命が起こる可能性があった。現行の体制が崩壊しては元も子もない、とエスタブリッシュメントは当然に考える。

そこで社会保障制度を導入し、持たざる者たちのガス抜きを図るわけである。社会保険や福祉の整備は国民の幸福を思ってのことではない。あくまで現体制の維持を意図してのものである。

エスタブリッシュメントは本音としては社会保障社会福祉にカネを使いたくない。それらから生じる利権は貪るが、国民の生活がどうなろうと関係ない、自分たちさえ栄えれば良しと思っている。

 

新自由主義市場原理主義では弱者の救済はできない。いや、資本主義そのものが弱者救済とは相容れない代物である。

社会保障制度や社会福祉制度は資本主義体制を維持するために、社会主義社会民主主義の政策を一部取り入れたものである。革命が起きるよりはマシだと考えて取り入れたものである。

 

実は弱者救済や格差の是正を図るにはファシズム体制を導入することが手っ取り早いというジレンマがある。

戦前のこの国においても既成政党の腐敗、官僚の腐敗、著しい経済格差が問題となっていた。その解決のためには反資本主義的な政策が必要だとされていた。国家社会主義ファシズムが有効な政治思想だと考えられていたのだ。北一輝の思想に影響を受けた青年将校が起こした2・26事件はその典型である。

ファシズムは「ファッショ」、つまり国民を束ね、共同体の力を強くしていこうとする思想である。ファシズムでは社会的弱者は共同体の成員であり、彼らは救わなければならないと考える。生活が破綻する者がいれば共同体の力が弱まるからである。

ファシズムは弱者救済という一点のみに着目すれば、有効な政治思想である。しかし、その副作用があまりにも多く現れるために現実的ではない。

「個」は「全体」に奉仕しなければならないとする思想は個人主義とは相容れない。強い共同体志向は排外主義を引き起こす。「自由」が極度に制限されるおそれがある。

 

また、国家による弱者の救済を実現するためには、国家権力の個人への介入を認めなければならない。いわゆる福祉国家は国家権力の介入の度合いが大きい。

 

国家又は自治体による弱者の救済を拡充すれば公権力が個人の生活・個人の自由に介入し、公権力の肥大化を招く。公権力からの自由を重視するか、弱者の救済を重視するか、ジレンマが生じてくる。

 

公権力に頼らない新しいタイプの自助・共助をベースにしたシステムが必要となるのかもしれない。そのキーワードは「脱資本主義」であると僕は思っている。脱経済成長と言ってもよい。

今のまま、新自由主義や経済成長至上主義が続くと、安心して暮らせる社会には程遠い未来が待っている。 

「適職」や「天職」なんて幻想だという件〈再掲〉

その仕事が自分に合うかどうかなんて実際に働いてみないと分からない。

自分にピッタリとマッチした仕事に巡り合う確率はかなり低い。

それでも僕たちは生きるために働かなければならない。

今やっている仕事が天職でなくても全然構わない。

 

初出 2017/3/7

 

「この広い世界のどこかに自分にぴったりと合った仕事がある」と僕たちは考えがちである。

自分にマッチした仕事を追い求めて転職を繰り返したり、「自分探し」をしたりする。

どうせ仕事をするならば、自分が好きなこと、自分に合った仕事をしたいと思うのは贅沢なことではない。

労働を「苦役」から「楽しみ」にしたいと願うのは人として当たり前のことである。

 

よくよく考えてみると人生はミスマッチの連続である。

進学する学校を間違える、就職先を間違える、配偶者を間違える等間違いを繰り返している。しかし、それでも多くの人たちはそこそこ幸せに暮らしている。

たとえ職場選びが自分にマッチしていなくても、大概の人はその職場でそこそこのやりがいらしきものを見出し、処遇に不満を抱えながらも辞めることなく働き続けている。

今している仕事が「適職」や「天職」とは思えるものではなくても何となくやり過ごしている人たちが多数派なのである。

 

「適職」や「天職」が取沙汰されるのは社会が豊かになったからである。

高度経済成長の頃までは社会全体が貧しくて、とにかく衣食住を確保できる仕事があり、その仕事に就きさえすれば完全とは言えなくてもそこそこは満足していた。仕事のやりがいや自己実現なんて二の次だったのだ。

何も僕は昔のように仕事さえあれば満足しろ、と言いたいわけではない。

適職や天職を殊更に追求するのはどこかおかしいのではないか、と問いたいだけだ。

 

はじめに適職や天職ありきという考え方や適職や天職に就かないと幸せになれないとする思いに覆われると働き方や生き方の選択肢が狭まり、身動きが取れなくなる。

大体仕事なんていざやってみないとその仕事が自分に合っているかなんて分からない。適職だと思って就いた仕事がそうでなかったり、渋々就いた仕事が意外と自分に合っていたなんてことは掃いて捨てるほどある。

当たり前の話だが、「何事もやってみないと分からない」のである。

 

穿った見方をすれば適職や天職云々というのは就職情報会社が振り撒いた幻想なのである。就職情報会社は転職する人たちが増えて、そんな人たちが転職を繰り返すほど儲かるシステムを採っている。世の勤め人たちが今の職場にそこそこ満足して転職しないような社会では就職情報会社は商売があがったりになるのである。

言い換えればミスマッチを許容し今置かれた状況に満足されては困るのである。人には適職や天職があり、自分に完全にマッチした仕事に就かないと不幸な人生になるというイデオロギーもどきが拡散しなければ就職情報会社は成り立たないのである。

 

適職・天職幻想が広まるのは何も就職情報会社だけの責によるものではない。やはり、人々の心の奥底に適職や天職があるはずだという思いがあってこそ成り立つものである。突き詰めれば「賃労働」の持つ本質から目を背けたいという無意識の意志が存在する。

殆どの人たちは自分の好きな仕事をしているわけではない。会社の命令ひとつで部署を変わり職種が変わり勤務地が変わる。会社の業績が落ちるとリストラ圧力がのしかかってくる。そんなことなら、せめて適職と言える仕事に就きたい、と考えるのは理解できる。

 

しかしながら、やはり適職や天職というものは幻想に過ぎない。

僕たちは働くことの意義を自分なりに考えながら日々の仕事をこなしていくほかにない。

このことは決して悲しいことではない。 

 

 

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