希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人に何と言われようとも僕は頑張りたくないという件

僕は幼少の頃から頑張ることが嫌いだった。正確に言えば人に自分の「頑張っている」さまを見せることが嫌だったのだ。

今もそうだけれども、ガンバリズム、根性主義的なものが大嫌いである。

 

「頑張れ」という言葉は便利で使い勝手が良いものである。

もし何らかの結果が出なければ、その人の頑張りが足りなかったからだとしてすべてをその当人の責に帰することができるからだ。これは自己責任論に近いものがある。

また、目的達成のプロセスにおいての戦略や戦術の稚拙さを隠匿するはたらきを持っている。会社の業績が芳しくない時は社員の頑張りが足りないからとして経営者の稚拙な経営手腕を覆い隠すことになる。学校教育に問題点が表れると教師の頑張りが足りないからだと教師個人の責任に転嫁する。つまり、責任を取るべき者の責任回避のために「頑張り」が執拗に用いられ、現場の一線に立っている人たちに責任をなすりつけるために「頑張り」が利用されているのである。

 

 

この社会では「頑張らない」でいると、それだけで強く責められてしまう。さらには頑張ることができないでいると人格に欠陥があるとレッテル貼りをされて人格攻撃に晒されてしまうのである。

頑張ることができない人たちにはそれぞれ事情があり、それは個人ではどうしようもないことであるのに(社会構造、環境等の影響があるのに)、本人の意欲ややる気の問題だとして個人の問題に収斂されてしまうのである。

 

僕はこれまでに幾度も理不尽な個人攻撃を受けてきた。そのこと自体はまあ仕方がないな、と思っているのだけれども、なんだかもやもやとした感じは常に付き纏っていた。

僕は僕なりに(人から見れば不十分かもしれないが)自分のやるべきことを着実に行ってきたという自負があった。良い結果が出るかどうかは運不運や時の勢いといった不確実な要因に負うことが多い。努力や頑張りが即結果に結びつくことなんて稀である。「頑張りさえすれば必ず報われる」なんて現実を無視した質の悪いイデオロギーもどきに過ぎない。殊更に頑張りを人に強いる輩は知的レベルが低い精神主義者だと思ってしまう。

 

ある程度の頑張りは絶対に必要だと僕も思う。

しかし、限度を超えた頑張りの強要は百害あって一利なしである。

人は誰でもそれぞれが目的に向かって頑張っている。たまたま結果が出る人がいれば結果が出ない人もいる、ただそれだけのことである。頑張ったからこそ成功したと強調することは不毛な精神論に堕してしまい何だか居心地の悪さを覚えてしまう。

 

僕は頑張りたくないし、人に頑張りを強要したくもない。

「怠け者」だとか「向上心がない奴」と謗られようともである。

「頑張れ」という言葉の裏には邪なものが隠されている。たとえそれが善意から発せられたものであっても、である。

「頑張る」「頑張れ」といった言葉を安易に持ち出さないよう、厳に慎みたい。

 

 

僕はある時から自分を甘やかすことにしているという件

僕たちはずっと「自分に厳しくあれ」的な生き方を推奨されてきている。

将来の自分のあり方を見定め、目標を設定し、自分自身を叱咤激励しながら生きていくことが正しいとされてきたのである。

 

僕もご多分に漏れず「自分に厳しく」というイデオロギーを信じていた。

自分に厳しくない奴らなんて自堕落な連中だと思い込んでいた。

成長だとか自己実現だとかは自分に厳しくあってこそ果たせるものだという誤った信念を持っていたのだ。

 

僕はあるときにふと気づいた。

「自分に厳しくあれ」なんてイデオロギーを撒き散らしてるのは、そうすることによって得をする連中だということを。

それは自己啓発系のコンテンツの売人だったり、支配者層に属する奴らだったり、その支配者層に寄生しておこぼれを貰おうとしている連中だったりする。

ひたすら「自分に厳しく」隷属的な労働を続ける人たちが多くいれば、そこから搾取して肥え太る連中がいる。自分に厳しくあらねば、と強迫観念に縛られる人たちをカモにして、もっともらしい自己啓発的言説を垂れ流す輩がいる。社会保障費の削減に血眼になっている為政者は、国に助けを求めることは恥だとの誤った考え方を広め、「自立」を強いてくる。

 

「自分に厳しい」ことは一見格好よく映る。

自立した現代人モデルの典型だと見える。

しかし、時としてこの格好の良さにとらわれると自分の生きづらさを拗らせることになる。

 

僕はある時までひたすらに自分に厳しくあろうとしていた。その結果、心身共に疲弊し、一時期ひきこもることになってしまった。

僕はそれまでの考えを改めて自分を甘やかしてしまえ、と方向転換することにした。

自分にできることなんてたかが知れている。成長や自己実現なんて無用の長物である、と開き直ったのだ。

 

自分を甘やかすということは自分自身に課すハードルを下げてしまうということだ。カネを多く稼げなくてもいい、社会的地位なんて気にすることはない、といったように「成長神話」に背を向ける生き方である。真っ当とされるレールからちょっとだけ外れた生き方を選択するということである。他者からの評価、他人の眼を気にすることなく、我が道を行くという生き方である。僕は今、これらを不完全ながら実践している。

 

自分を甘やかすということは、自分に優しくなるということだ。そして、自分というものに過度な期待を抱かないということでもある。自分に優しくできれば、同程度あるいはそれ以上に人に優しくできるはず、と信じている。

僕は今は「生き延びること」ができさえすれば万々歳だと思っている。自分なりに楽しく、面白く生きることができれば他には何もいらない。

 

僕はこの自分の生き方を僕以外の人たちに押し付けようとは思わない。

「自分を甘やかす」のはある意味緊急避難的なものである。下手をすれば自堕落でどうしようもない人間になってしまう危険性もある。自分なりの一定の「歯止め」を設定しておく必要がある。

 

「自分に厳しく」あろうと疾走してきて疲労困憊したときに、一旦休んで「自分を甘やかす」路線に切り替える。このように両者を時と場合に応じて使い分けることも、生きる上でのひとつの智慧だと僕は思う。

自分に厳しすぎても良くない、さりとて甘やかすばかりでもよくないというように、ただシンプルに物事を捉えればいいのである。

 

会社に従順なサラリーマンを生み出すために大学は存在しているのか、という件

大学が「就職予備校」化していると論じられて久しい。

昨今の就活の狂騒ぶりを見ているとそうなのだと納得する。大学生活の思い出は就活だ、という著書もあったが、そのことに悲哀を感じてしまう僕は世間とズレているのだろうか。

 

確かに就職は人生においての一大イベントである。新卒時の就活の結果がその人の人生を左右する可能性もある。

大学が就職予備校と化しているという指摘は最近に始まったものではない。戦前の大正・昭和期の旧制大学においても、昨今はサラリーマンになることにあくせくしている学生が多いと嘆いている言説が存在していた。

 

大学進学者が同年代の過半数を超えるような大学の大衆化が進むと大卒者の特権性は失われる。巷に学士が溢れると、その希少価値はなくなる。そして、大学を卒業すればサラリーマンになるのが当たり前になってくる。大学の存在意義が「高等教育」を授けるものから、労働者の養成機関へと変化するのも致し方ないことになる。大学の良し悪しは教育内容ではなく、いかに世間で良いとされている会社にいかに多くの学生を送り込むかで決してしまうことになる。人格の陶冶、教養などという言葉はもはや死語となっている。

 

僕は大学での教育を「職業教育」と切り離すべきなどとは思っていない。高度の職業教育も重要である。ただ、それはあくまで独立独歩が可能な専門知識や職業意識を身につけるといった意味での職業教育である。会社や役所の勤め人になってもいいし、起業したりフリーランスになってもいい、どんな状況に置かれても我が身を守れるような知識と技能、いわゆる「稼げるスキル」を手にすることが職業教育だと捉えている。

ひとつの会社に縛り付けられてサラリーマン根性を植え付けられ、社畜や会社人間と揶揄されるような会社に隷属した労働者を大量生産するような機関に大学が堕しては駄目なのだ。

 

大学生活で最も楽しいのはそれまでになかった「自由」を手にすることだと僕は思っている。自分が興味を持ったことに対して深く学ぶことができる。たとえ自分の専門領域以外の事項でも自由に学ぶことができる。逆に面白くないと思ったことについては単位だけを取得して、表現は悪いが思い切って「捨てる」こともできる。先人たちの業績から学べるし、時として自分のオリジナリティを出すこともできる。大学で学ぶことはそれまでの「お勉強」ではなく「学問」へとステップアップするのである。

 

「学問」は面白くて楽しいものである。たとえ、その内容が実生活に直接に役に立たないものであったとしても。役に立ちそうにないことを必死に学び知識を得る、ということも大学生の特権である。

会社での仕事にのみ役立つことを学ぶようなサラリーマン養成的な大学「教育」はなくてもよい。そんなものは会社での研修で身につくものだからだ。大学生活での貴重な数年をそのような陳腐なものを習得することに心血を注ぐことは不毛なことである。

 

現実は今の大学はサラリーマン養成所と化している。

しかし、ひとりでも多くの人たちがこの事実に抗って、大学でしか学べない「役に立ちそうにない」ことを楽しく面白く学び教養的なものを身に付けて欲しいと僕は強く願っている。

実は一見「役に立ちそうにない」知識や思考様式が人生のところどころにおいて役に立つことになるのである。 

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