希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

会社を辞めることなんて大したことではないという件

会社勤めのサラリーマンで一度も会社を辞めたいと思ったことがない人なんているのだろうか。大抵の人たちはこんな会社辞めてやる、という言葉を飲み込んで我慢して勤め続けているのではないだろうか。

 

会社を辞めることはなかなかに難しい。とんでもないブラック企業に勤めていたとしても、あっさりと辞めてしまうことに躊躇する。

特に学校を卒業してはじめて勤めた会社を辞めることに逡巡する。何事も「一回目」のハードルは高い。結婚や離婚も2回目、3回目は軽やかにできる(そんなわけないか)。

 

会社を辞めることは単に仕事や職場を変えるということを意味するのではない。自分が所属する共同体から抜けること、自分の居場所を喪失することを意味するのだ。自分が依って立つ足場を無くすいうのはなかなかに怖いことである。真の意味での「個」が確立されていればそうでもないのだけれども、少しでも会社というものに寄りかかった生き方をしていれば、会社を辞めるということはアイデンテンティ・クライシスをもたらすことにもなる。

 

僕は最初の勤め先を辞めるのに、決心してから1年近くかかった。今の仕事を辞めてしまったら、自分に勤まる仕事なんて見つからないのではないかという不安が消えなかった。また、自分なんかにできる仕事があるのか、という不安もあった。さらには真っ当なレールから外れてしまったら、奈落の底に落ちてしまう、という強い不安もあったのである。それゆえに、退職を決心したもののなかなか重い腰があがらなかったのである。

 

何度かの転職を経験しフリーランスも経験した今だから言えることだけれども、会社を辞めることなんてどうってことはないことだ。会社を辞めても必要最低限の意欲さえあれば何とかなるものだ、と声を大にして言いたい。

勤め先なんてどこでも似たり寄ったりである。また、雇われて働くという形にこだわることはない。ちょっだけ人より詳しい分野があれば何とか自分ひとりが生活できるだけの稼ぎは生み出せる。確かに金銭的には恵まれないかもしれない。有体に言えばビンボー生活を余儀なくされるかもしれない。しかし、ビンボー生活に対する耐性をつければ何とかなるものだ。しょうもない世間体や見栄に囚われなければ、そこそこに楽しくて面白い生活を送ることができる。

 

とは言え、僕は会社を辞めたがっている人たちに「すぐに辞めてしまえ」と無責任なことは言えない。我慢できる程度の不満であるならば会社にしがみついていた方が良い場合が多い。自分が設定した一線(譲れないもの、価値観、労働観、人生観等)を越えた場合に会社を辞めたらよい。

僕の周囲を見渡すと会社を辞めて不幸になった人は皆無である。逆に会社にしがみついてドツボに嵌った人はいる。僕の見聞きした狭い範囲で起こったことを一般化はできないが、どうやら「会社を辞めたらとんでもないことになる」ということはほとんどなさそうだ。

そもそも、新卒で就職した会社に定年まで勤める人たちの方が少数派である。大方の人たちは何度か転職したり、フリーランス・自営として働いたりしている。そしてそれらの人たちは何とかやっていけているのだ。

 

会社という共同体を自由に、気軽に移動できる社会の方が居心地が良い、と僕は思っている。ひとつの共同体に縛り付けられ、その価値観に骨の髄まで浸り、その組織の論理に絡み取られてしまったら、生ける屍のようになってしまう。

良い意味での「個人主義」的な価値観を持ちつつ(「個」の確立とも言える)、共同体の論理に埋没することなく、自分が好ましいと思える共同体を探し求め続け、ひょいひょいと軽やかに渡り歩く生き方が楽しそうで面白そうだと僕は思っている。

 

 

仕事だけの人生なんて本当にクソつまらないという件〈再掲〉

仕事なんて人生のほんの一部に過ぎない、と僕はこのブログで何度も述べている。この考え方が絶対的に正しいとは思わないが間違っているとも思えない。仕事=人生だと思い込まされていると生きづらさが増幅する。

 

初出 2017/1/31

 

人は生活を成り立たせるためには何らかの形で働かなければならない、というのは自明のことである。

自分の(あるいは家族の)食い扶持の分だけ稼げばあとは何をやっても自由だというわけである。

ところがそんな「ゆるい」働き方や生き方が世間一般で認められているかというとそうではない。

 

仕事一筋人間とか仕事=人生みたいな働き方をしている人を賞賛する風潮が根強く残っている。人の価値を仕事ができるかどうかで評価し選別している。仕事に重きを置かない人たちをどこかで白眼視し異端者扱いしている。

時々、仕事以外のことに、例えば社会活動や地域活動や趣味等に没頭している人たちを「新しい生き方」的なものとしてメディアが取り上げることがある。それらはあくまでも例外的なものであるからスポットライトが当たるのであって、世の中の主流ではなく傍流であることに変わりはない。

今でも人生の大半を仕事に費やす、という生き方が多数派を形成しているのである。

 

僕はダメ人間であり、マイノリティに属する人間である。

仕事は人生の一部でしかないと考えている。

そんな僕からすると、仕事命、仕事=人生という人たちは働くしか能のない人たちだと思えてならない。

しかしながら、「働くしか能のない人」がそれこそ寝食を忘れて働き詰めに働いてくれたおかげで今の物質的な豊かな社会ができたのである。僕はその恩恵を受けているのは間違いない。したがって働くしか能のない人たちの生き方をとても否定することはできない。ただ、そのような生き方や働き方を僕のような奴に押し付けないでくれ、とだけしか言えない。

 

ここでこのような反論がくるだろう。自分の仕事を天職と捉えて仕事に情熱を注ぎこむような生き方を否定するのかと。

もちろん僕は否定しないし、そのように生きている人たちに敬意を表する。ただ、天職といえる仕事についている人たちはレアケースである。殆どの人たちは自分の属する会社や役所等の組織の中で仕事を割り振られて、その仕事を何とかこなしていっている。要するにほとんどの人は賃労働に従事する労働者なのであって、労働者が仕事命的な働き方や生き方をするのはいかがなものかと問いたいだけなのである。伝統工芸の職人や芸術家などとは同一視してはいけないのだ。

 

世の中に数多ある仕事の殆どは誰にでもできるものである。代替可能なものである。そのような仕事に一生の殆どを費やすということに僕は割り切れない思いを抱いている。

仕事は生活のためだと割り切って、仕事以外のことに仕事に注ぎ込む以上の情熱をもってあたってもいいのではないかと思うのだ。

その「仕事以外のこと」はどんなものでもいい。自分の好きなことを自由に自分のやりたいようにやればいいのではないか。世間でもそれをもっと認めるような風潮が生まれてしかるべきである。「働き方改革」もこの視点で論議してほしい。仕事だけが人生的な考え方のままでは小手先の改革に終わるだけとなってしまう。

 

仕事だけの人生なんてつまらない、と僕は強く思っている。

傍から見てくだらない、取るに足らないようなことでも本人にとっては情熱を注ぎこめるようなことを見つけて楽しく面白くそれに注力する。そのような生き方を受け入れられる社会になれば、人それぞれの「居場所」が確保できる生きやすい社会になるはずである。

 

  

人の「やる気」を引き出そうとすればするほどその人はやる気をなくすという件

殆どの人はやる気を出せと発破をかけられればかけられるほどやる気をなくしてしまう。これは「やる気のジレンマ」とでも言うべき現象である。

大体がやる気なんてものは内発的動機づけがあってはじめて発揮されるものであり、人からやいのやいのと言われて出てくるものではない。

 

学校の教員にしても会社の経営者や上司にしても、この「やる気のジレンマ」を理解していないことがあまりにも多い。それどころか「やる気至上主義」に陥ってしまうケースがとても多い。

安易に「頑張れ」とか「やる気を出せ」といった類の叱咤激励を繰り返し、その相手のやる気を失わせていることがなんと多いことか。

 

無能な上司ほど「やる気至上主義」に毒されている。

無能な教師ほど「やる気至上主義」に陥っている。

「やる気至上主義」は悪しき精神主義、根性主義以外の何物でもない。

 

僕は働きだしてから何人もやる気至上主義にどっぷりつかった無能な上司に遭遇した。僕が雇われて働くことに強い拒否感を抱くに至った原因のひとつがこれらのバカな上司に出会ったことによるものである。

「やる気を見せろ、そのためにももっと残業をしろ」とか「一生懸命さが見えない」といったバカなことを言い、僕のやる気を身ぐるみはがすように削いでいったのである。

 

元々学業にしても仕事にしても一定の結果を出せば事足りるものである。懸命に汗を流したことが尊いというものではない。

やる気を見せるが結果が出ない者とやる気は表に出さないが結果は出す者がいれば、後者の方が高い評価を得るべきである。

やる気は見せるが無能な人が集まる組織に未来はない。

 

僕はやる気そのものは評価に値しない、と言いたいわけではない。当然に何事を為すにもベースにはやる気は必要なものである。しかしながら、やる気を評価基準にしてそれが度を超すと目も当てられない状況になってしまうと言いたいだけなのだ。

精神主義が蔓延すると悲惨なことになるということは戦前の軍組織を見れば一目瞭然である。

 

僕がやる気至上主義的なものに強い嫌悪感を抱くのは、僕の資質によるものであることは否定できない。僕は子どもの頃から勉強にしてもスポーツにしてもやる気を表に出すことを好まなかった。努力しているところを他人に見せずに、涼しい顔をしてさらりとこなすことが格好いいと思っていたのだ。僕の美意識である。今もこの美意識を持ったままでいる。

だから、「やる気が第一」とか「やる気を見せろ」といったことが重視される集団にはなじめないのである。

 

やる気至上主義がやる気のジレンマを生み出すという事実は社会心理学の領域や組織論等ではほぼ定説のようになっている。僕の個人的な見解とも一致している。

しかし、世間では相変わらずやる気至上主義に傾きがちである。一見やる気がないように見える人は低い評価を受け、時には集団から排除されることもある。他方で能力はないのにやる気を見せることだけは上手い者たちが高い評価を得る事態が頻発する。

この傾向が続く限り、真に能力のある人が日の目を見ないことになるおそれが多々あるし、この社会はますます停滞すると思えてならない。

 

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