希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

会社や学校をサボることは楽しいという件

学校生活においても社会に出て働いていても、サボることはいけないことだという意識を刷り込まれる。

時にはサボることは人としてなっていないと人格攻撃にさらされることもある。

労働至上主義的あるいは勤勉至上主義的イデオロギーが蔓延している社会でサボることは罪なのである。

 

学校や会社をサボることは本当に悪いことなのか。

ある人曰く、決められたこと(登校や出勤)を守れないような人間は信用されない。

ある人曰く、サボることで他人に迷惑をかけてはいけない。

またある人曰く、サボり癖の付いた人は何をやってもダメだと。

どれもこれも尤もらしい物言いではある。

でも、なんとなく「強者」の論理が勝っているような気がする。

サボるという行為は予め決められた物事に対して抵抗すること、あるいはそんなに大層なものではなくても変わり映えのしないつまらない日常をちょっとだけ壊してみたいという欲望の表れである。

サボることは悪いことではない。

サボることを放っておいたら不都合な一部の人たちが「サボること=悪」という「常識」らしきものを世に広めて、自分たちの既得権を手放したくないだけなのである。

 

僕は自慢じゃないけれどもサボり癖が身に染み込んでいる。

それが顕在化したのは高校生の時である。

僕が通っていた高校は当時「生活指導」といった類のものが全くなかった。生徒の自主性を重んじるという建前の放任主義だったのだ。

だから授業はサボり放題だった。

だから僕を含めた一部の生徒たちは嫌な授業やつまらない授業をサボって校外に出る、といった「悪さ」をしていた。

僕が通っていた高校はお城の真横にあるというロケーションだった。その城にあるお堀にあった遊歩道は絶好のサボり場だった。僕は一人なら文庫本をベンチに座って読み耽り、友人・知人と一緒になったりすればたわいもない話をして時を過ごした。サボる生徒を監視するために見回りをするなんて先生は一人もいなかった。

この時の経験が後のダメ人間であり、サボり癖のついた僕という人間を形作ったのである。

 

僕は働きだしてからもちょくちょく仕事をサボった。

僕はつくづく思った。年次有給休暇という制度は本当にいいものだと。有給を取りさえすれば、大手を振って仕事をサボることができる。こんな素晴らしい制度を勝ち取った先人たちに感謝し尊敬の念を抱いた(当時はそんなことまで思わなかったけど、後になってそう思うようになった)。

この国の労働者の有給休暇の消化率が低いことはよく知られている。なかなか仕事をサボれない状況は良いことではないな、と僕は思う。

 

会社や学校をサボることには背徳感がつきまとう。

みんなが勉強をし、仕事をしているときに自分だけがそれらから逃れて楽しんでいる、ということにある種の疚しさがある。その疚しさに耐えられない人はサボることができず、勤勉な学生・労働者となる。学校当局や会社の経営層はその疚しさを増幅させるために「サボること=悪」というイデオロギーを刷り込もうとするのである。

 

学校や会社をサボることの背徳感は同時に快感を僕たちにもたらすことになる。

仕事や勉強をサボるのは実に楽しいことなのである。

この快楽を僕たちから奪って、進学実績や就職実績、会社の業績等を上げようと学校や会社はあれやこれやの手を打ってくる。

サボる人には内申書や人事考課の評価点を下げる、といって脅しをかけてくる。多くの人たちはその脅しに屈してサボることをやめて勤勉な学生や労働者となる。

僕は何もサボっても人事考課の点を減じるな、と言いたいわけではない。どんどん減点すればよい。勤勉だけが取り柄の均質化された社員を大量生産すればいい。その結果、その会社がどうなるかは預かり存ぜぬことである。

 

僕の全くな個人的な考えなのだけれども、サボることの快楽を知りその大切さを知っている人こそが何か新しいものを生み出せると思っている。

サボり癖が染み付いたダメ人間である僕の戯言だと思われても、である。

 

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「働くことの喜び」なんて本当にあるのか、という件

僕はこのブログでずっと雇われて働くことはとても苦痛だと言い続けてきた。僕が特別な価値観を持っているからではなく、労働の持つ本質的なものである、とも言ってきた。

労働が全くの苦役であるならば話は簡単である。

しかし、働くことによって得られる充実感があり、満足感があるところから話は少々ややこしくなる。

 

「労働の喜び」というものは資本主義体制を維持するためには必要不可欠なイデオロギーである。労働が全くの苦役に過ぎないのであれば、いつかは資本主義的イデオロギーに齟齬が生じ、体制は崩壊する。

働くこと喜びがあるはずだ、働くことに喜びを感じよ、と「上から」一方的に押し付けることはできない。勤勉は美徳だとの価値観を広げることはできるけれども、個人の信条や価値観を塗り替えることなんてできはしない。

この資本主義体制が続いていること、労働者がなんだかんだ言っても働き続けているのは、「労働の喜び」的な何かが労働に内在しているのである。

 

労働は「賃労働」とその他の労働に分けて考える必要がある。

農作物を作る労働、自分で育てた農作物はすべて自分のものとなり、それらを売ったり自家消費する自由がある労働は会社に勤めて賃金を得る労働とは全く違うものである。余人に代えがたい商品を作る職人もそうだし、芸術家・作家・アスリート等もそうである。

賃労働という形を採らない「仕事」をする人たちには労働の喜びがあることは理解できる。

アスリートや芸術家、職人等の「仕事」と雇われ人の「賃労働」をごちゃまぜにして、「働くことの喜び」云々を捉えるのは明らかに間違いである。

 

雇われて働く労働者は会社の命ずる職場・職種に就いて、建前上は対等の立場で締結した労働契約による労働条件のもとで労働力を会社に提供して賃金を得ることになる。労働者は会社によって搾取される。搾取無き賃労働はありえない。

どこで働くか、どんな仕事をするかは労働者は自由に選択できず、賃金は会社の業績が良くても抑制されてそんなには上がらない。元々賃金は会社の利益を分配されるものではない。労働者の衣食住の確保をして次の一か月も働ける状態にするための、労働者の再生産(家族を維持する)のための、技術革新に対応する教育費の投資のための、それらに相当する額が支払われる、生産関係で決まるものである。

つまり、労働者である限り、いくら働いても常にカツカツの生活を余儀なくされるということだ。

 

サラリーマン(労働者)が職場を変えたいと思う理由として人間関係があがってくる。人間関係が良ければ、その職場に留まり続けることができる、と多くの人はそう考えている。

仕事をしていて喜びを感じるのはチーム・部署である目標を達成したときの達成感であることが多い。

いずれも「労働」の本質的なものではなく「外部」の要因に基づくものである。仕事そのものの面白さというよりも、良質な人間関係やチームワークという労働の「外部」にあるものに対する喜びである。

つまり、仕事自体に面白みはなくても、それ以外の代替物によって喜びを得て、明日以降の労働意欲に結び付けているのである。

 

僕の全くの個人的な考えになるのだけれでも、やはり「働くことの喜び」みたいなものはあるかもしれないけど、それは労働自体に内在するものではないということだ。労働自体はつまらなくて苦痛を伴うものである。

仕事によって自己実現をする、仕事にやりがいを持つことなんて本来はありえないことになる。労働はあくまで労働であって、そこに成長とか自己実現とかやりがいなんて介在する余地はない。

 

仕事に人生を捧げるなんて生き方は幾つかの例外(芸術家・アスリート等)を除いて、労働という形で何かに隷属し続ける一生だということだ。

とはいえ、大半の人たちは何らかの形で働き続けて、生活を成り立たせなければならない。

芸術家やアスリート、独立した熟練の職人、専門的なフリーランス等の形を採って働くことができれば「労働の喜び」を感じることができるかもしれない。

サラリーマン、労働者は自身が搾取される存在であることを意識し、そのうえで自律的に働くことで疑似的な「労働の喜び」を得ることができるかもしれない。労働の持つ残酷な本質から少しでも逃れることができれば、それで十分だと諦念することだともいえる。

「労働」、特に「賃労働」を根源的に突き詰めていくと救いがないように思えてくる。しかし、「労働」の外部で、人と人とのつながりを求めることによって、本質的な解決ではないかもしれないけれども、一筋の光明、救いが見えてくる気がしてならない。

 

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苦労することを賛美するのはとても無責任だという件〈再掲〉

この国の人たち、特に年輩者は苦労話が好物である。

「苦労しなければ一人前じゃない」といった類の妄言を信じている節がある。こんな精神主義や根性主義がまかり通っているようではお先真っ暗である。

 

初出 2017/1/12

 

僕は苦労なんてしたくない。

できれば楽をして生きていきたい。

効率的に稼いで自由時間をたっぷりと確保してその自由を満喫し面白く楽しく生きていきたい。

 

「苦労は買ってでもしろ」と先人は言ったらしい。この言葉を金科玉条としている人が結構いる。成功者と言われる人の中にも苦労は多くした方が良いといった類の教訓を垂れる人がいる。世間ではそのような人たちの言葉をありがたく受け取る風潮がある。

何のことはない。成功者はその道で成功したから苦労しろ、と無責任に言えるのだ。苦労と成功の間に相関関係はない。苦労なんかせずに、あるいは苦労とは感じることなく成功した人なんてごまんといる。

成功者といわれる人たちは本来ならば苦労なしで効率的に成功する方法を広めるべきである、と僕は思っている。

 

苦労することを賛美することは悪しき精神論、根性論に即時に転化する。

何事かを為すためには苦労せねばならない、となると人のチャレンジ精神を削ぐことにもなりかねない。

通常、成功に至るプロセスを踏むことは「苦行」「苦労」であってはならない。それは「快楽」を伴うものであって然るべきである。

世の多くの人たちは楽しんですいすいと成功した人を好まない傾向がある。「うまいことやりやがって」とそのような成功者を妬み、ひどいときには引きずり降ろそうとさえしようとする。苦労することは成功者の免罪符的なものなのかもしれない。

 

若者をバッシングする若者論のひとつに今時の若者は苦労が足りないからダメだ、というものがある。これは全く根拠の無い俗論である。

多くの苦労をした人が人格者であるというのはこれまた根拠の無い俗論である。散々苦労をして人格が歪み、人間不信になった人なんて星の数ほどいるのである。

 

要は人というものは、他人の成功を心から喜ぶことができず、その成功を妬み、その妬みや嫉みを正当化するために苦労云々を持ち出すのである。

エリート的な人たちに対するネガティブな感情もその表れだと言える。

人は生まれながらに持つ資質に差がある。これは否定できない事実であるにもかかわらず素直にそれを受け入れることができないのだ。悪しき平等主義に毒されているのである。人はすべて平等である、というのは幻想に過ぎないのにである。

 

僕は苦労することを賛美し、他者に苦労することを強いる人を信用しない。

自分の苦労話を(その苦労によって成功した俺ってすごいだろう的な)得意げに話す人たちのメンタリティが理解できないし、その言葉は全く耳には入らない。自分の苦労話を恥ずかしげもなく他者に押し付けるのは品のない行為である。

 

苦労なんてしないに越したことはない。

傍から見ればものすごい苦労をしているのにそれを淡々と話す人、苦労なんてこれっぽちもしていないとあっけらかんとしている人が僕は好きだ。

そのような人たちはみないい顔をしている。

  

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