希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

仕事を生活の中心とするな、という件〈再掲〉

僕はこのブログで「仕事は生活の一部に過ぎない」と繰り返し主張してきた。

仕事が絶対的にプライベートよりも優先する、なんて考え方は歪である。

仕事中心の生活が当たり前だというのもイデオロギーもどきに過ぎない。

 

初出 2017/1/10

 

表題の言葉は僕のオリジナルではない。

ニートや引きこもり支援をしているニュースタート事務局を主宰している二神能基さんの著書で用いられている言葉である。

説得力のある名言なので引用させていただいた。

 

多くの人たちは仕事が生活の中心となっていることを自明のものとしている。

趣味や社会活動の時間は仕事をやりくりして捻出するように、何事も仕事ありきで考えがちである。このことを半ば常識であると捉えている。

自分の仕事に支障が出るようなことは極力排除するようにしている。

自分の仕事以外の活動のために有給休暇を取ることは何となく憚られるような風潮がある。

仕事を「公」のものと考え、滅私奉公をすることがまともな社会人である、という一見古臭い考え方が未だに残っている。

 

僕は何度もこのブログで仕事は人生の一部に過ぎない、と言ってきた。

この仕事観、人生観、価値観はあくまで僕個人が持っているものなので絶対的に正しいとは言えない。仕事=人生だとの価値観を持っている人たちを否定するものではない。自分の仕事に全精力を注ぎこむ生き方を選んだ人たち、そんな仕事に巡り合った人たちはある意味幸せである。

しかしながら、仕事一筋の人生は何となく歪である、偏っていると思えてならないのだ。もし、その仕事を失ったり、仕事ができなくなる状況に陥ったときにどうするのだろう、と心配になってくる。

 

殆どの人たちは自分の生活を営むために何らかの形で仕事をしなければならない。雇われる形であれ、フリーランス・自営であれ。

元々は生活費を稼ぎだすための手段として仕事をしているはずだ。仕事が人生の目的になっているわけではないはずである。

巷では仕事を通して自己実現を図るだの、仕事が人生を決めるなどといった言説がまかり通っている。よくよく考えてみるとおかしいことである。会社は利益を追求するために存在するのであって、労働者個々の自己実現なんて関係のないことである。労働者は会社に「搾取」されることを前提に自分の労働力を売っている、それ以上でも以下でもない。「自己実現」の類は会社が労働者を統制するための道具に過ぎないのである。

 

人々の生活は仕事の場以外の家庭や地域社会、様々なコミュニティでの営みも大切なものである。言い換えれば、自分の「居場所」を確保し、そこで自分の役割を果たして他者に承認され自身の存在意義を確かなものとするのである。

仕事の場以外に自分の居場所がない状況に陥ると人生の幅が狭まるし、何より生きづらさが増幅することになる。仕事を生活の中心とすると容易にこのような状況に陥ることになる。

 

今は、あるいはこれからは仕事を生活の中心としないような生き方を選択することがより良い人生を送るためのひとつの方法となる、と僕は思っている。

会社や役所等の組織はその成員に仕事中心の生き方を強いて、組織の論理に絡め取ろうとする力学を働かせる。放っておけば個々の「私」の領域をどんどんと侵食してくる。そして次第にそれに抗う気概や気力を奪ってしまう。

フリーランスという働き方を選んだ場合でも、仕事中心の生活をしていると同様のことが起きる。

 

僕は「仕事を生活の中心となるな」という言葉を常に心に留め置いておこうと思っている。労働至上主義イデオロギーに毒されないためにも、勤勉至上主義イデオロギーに抗うためにも。

人に何と言われようと、仕事だけの人生で終わりたくない。 

ダメ人間だと自覚すればするほどワクワクしてくるという件

僕はダメ人間だと自覚している。このブログでも何度も自分のダメさ加減を書いている。人から「いやぁ、ダメ人間なんかじゃないですよ~」とかなんとか言われたいとは思ってはいない。

でも、「あんたは無価値な人間」だとか「下劣な人間」とか言われるととても腹が立つ。ダメ人間であっても、人としての尊厳とか矜持とか誇りなんかには敏感なのである。

 

僕は40代のはじめの頃まで自分を高付加価値のある人間だとか役に立つ人間だとかにしようとあくせくしていた。他者から優秀な奴、できる奴と見られたかったのだ。常に理想と現実とのギャップに苦しめられていた。現状を打破しようともがいていた。

あるときふいに「どうでもいいや」と開き直ることにした。成長至上主義的な考え方を拒否することにした。やりがいのある仕事なんて幻想にすぎないし、人は仕事によってのみ成長するなんてありえないとの結論を得るに至った。全くのひとりよがりな考え方だけれども。

 

自分のことをダメ人間だと規定することは全然悲しいことではない。ただし、自己肯定感を持ったままでなければならない。自己否定を伴ってダメ人間であると自分を規定してしまうとドツボにはまることになる。ダメ人間ではあるけれども、ちょっとは見どころがある、この世の隙間で存在し続けてもよい、と自分の存在を肯定する気持ちを持つことがキモである。

世間で言うところの真っ当なレールからは外れているけれども、谷底には落ちていない。レールの周りに広がる平原を自由に彷徨しているだけなのだ。

 

自分がダメ人間であることを自覚し、自分に対する期待値が低いと現実に押しつぶされることがなくなる。

他者からの評価に気を揉んだりする必要はない。世間からの同調圧力にさらされても、どこ吹く風と受け流す。真っ当とされる生き方、こうあるべきだという生き方なんて所詮は多数派の人たちが勝手に作り上げた幻想に過ぎない。多数派が常に正しいとは限らない。

もし、誰かが僕のことを嘲るのならば、好きなようにさせておく。可哀想な奴だと同情しながらも。

人が人の生き様にあれこれ口出しすることは筋違いであり愚行である。

 

僕はダメ人間であるがゆえに持つことができたものの見方というものを大切にしたい。

世間で流布している常識や良識といったものの根拠が実は確固としたものではないこと。

真っ当とされる生き方や働き方なんて、支配者層にとって都合のよいものに過ぎないこと。

ひねくれたものの見方が時として本質を衝くことだってあるのだ。

 

ダメ人間として生きていると面白いことにたくさん出会う。

少々の悩み事なんて笑い飛ばせてしまう。そもそも悩むこと自体がそんなにない。

僕はもっともっとダメ人間を極めたい。

 

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一斉に「できる人」になろうとする競争に飛び込むと疲弊するという件

僕は競争そのものを否定しない。

競争があってこそ生み出されるものが多くある。

けれども、競争によって失われるものもまた多くある。

 

資本主義体制下の社会では競争が前提となっている。

ミクロのレベルで見ると、多くの人たちは会社という組織に属し、そこで出世・生き残りの競争にさらされる(フリーランスでもやはり生き残り競争がある)。

「できる人」だと他者から評価されようと必死になって働く。

仕事ができるかどうかがその人の価値だという決めつけが未だに残存していて、多くの人たちはその決めつけに右往左往している。

 

良い学校を出て、良い会社に入り、結婚して子を得る、といった画一的な価値観はもう崩れているという言説もあるが、未だに強い規範として残っているように思われる。

 

「できる人」でなければならない、「できる人」になるように粉骨砕身仕事に打ち込まなければならない、といった価値基準が大勢を占め、それに均一化されると非常に殺伐としたものになる。

 

「エコロジカル・ニッチ(生態学的地位)」という生物学の述語がある。

同一の空間に生物がひしめいて、限定された資源を分かち合っているときには種によって活動時間や食性を異にする方がそのシステムは安全となる。そのため生物はサイズや機能や生態を多様化しているのである。

僕たちは有限である経済のパイを分かち合っている。

皆が正社員という働き方を志向し、地位やカネを至上の価値として求めるような均一化した価値基準のもとで行動していては大多数の人たちがシステムから脱落し、また疲弊する。そして脱落した人たちの受け皿が十分にないときには悲惨な状況に陥ることになる。

エコロジカル・ニッチという考え方を類比的にとらえる必要がある。

 

経済のパイが無限にあると錯覚し、経済成長が至上の価値だととらえて、人々が際限のない競争に没頭するとその社会は衰退し下手をすると崩壊に瀕することになる。

人も生物の一種であるのなら、「棲み分け」をしなければならない。共存共栄を図らなければならない。

自立や自己責任を殊更に強調するのではなく、助け合い・相互扶助的な支え合いの精神を失ってはならないのである。

 

均質化された価値基準下での過当な競争、分かりやすく言えば他者よりも「できる人」に皆がなろうとする行動原理を少しでも疑ってみることが必要なのではないだろうか。

自分が働きやすい、生きやすい「場」をそれぞれが見つけ、その場が多く存在するような社会となるように僕たちひとりひとりが仕向けることが大切になってくる。

同調圧力が強い今のこの社会ではなかなか難しいことではあるけれども、あながち無理筋の話ではないように思う。散発的に局地的に新しい動きが胎動している。今はマイノリティでか弱い胎動であっても、僕は希望を捨ててはいない。

 

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