希望の舎―再生編ー

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「怠ける権利」なんて本当にあるのか、あってもいいという件〈再掲〉

怠けること、怠惰なことが「罪」だとみなされるようになったのは近代になってからである。資本主義体制の国家の、国民国家の生成と関係がある。

怠けることによって創り出されるものがある。

 

初出 2016/11/29

 

ここんところずっと憲法の改正論議が続いている。

僕は改憲派である。

僕の主張は「怠ける権利」を認め明文化せよ、であり、勤労の義務なんかなくしてしまえというものである。

何人も怠ける権利を有し、それは人たるものの固有の不可侵の権利である、といった感じの規定を加えたら面白いのではないか、と勝手に妄想しているだけの話である。実現性はほぼゼロである。支配者層はこんなものを認めるわけがない。奴らの古めかしい堅い頭には「怠惰は罪」という考えしかない。怠惰は国力を損なう、という経済成長至上主義に凝り固まっている。

 

憲法に「怠ける権利」を、なんて話はただの僕のヨタ話である。妄言である。しかし、「怠ける権利」という考え方がちょっとだけ世の中に浸透してもいいのではないかと僕は思っている。

馬車馬のように一生の間ずっと働き続けることが正しいなんて勤勉至上主義的イデオロギーに異を唱えたいのだ。

もちろん、人それぞれの能力や意欲に応じてその人なりに働くのは当然である。ただ、働き続けていてちょっと辛いなと感じたり、疲れたり、疑問を感じたりしたときに堂々と休む、つまり堂々と怠けることができて、怠けていることを非難されないようなゆるさのある社会になればいいと僕は思っている。

 

社会保障制度に「怠惰のための給付」なんてものがあっても構わないのではないだろうか。例えば勤続5年を超えたら1年間の怠ける期間を認めてその間の生活を保障する給付制度とか。会社を辞めてもいいし、在職したままで休職扱いにして出戻りを許すような制度である。ヨーロッパでは似たような制度があると聞いたことがある。長期間のリフレッシュ休暇に似たようなものだ。

この手の長期休暇を設けるとこの国ではその期間中は自己啓発しろとか仕事のための勉強しろとかになりがちであるが、そんなことをしていたら意味がない。何をしてもいいし、何もしなくてもいいのである。ただだらだらと過ごすこと、好きなように過ごすことに意義がある。

 

怠ける権利が少しだけでも世の中に認められるとニートやひきこもりの人たちにとってはちょっとだけ居心地が良くなるかもしれない。

怠惰が決して悪でも罪でもない、となると自身の存在意義を否定することがなくなる。ニートやひきこもりをしていることへの罪悪感が減る。

怠ける権利を認めてしまうと、勤勉至上主義イデオロギーに毒されたオッサン連中はニートやひきこもりが増えて国力が衰えるといった妄言を吐くに違いない。この手の連中はニートやひきこもりの人たちに常に罪悪感を持っていてほしいし、劣悪な待遇の労働でも働けるだけましだとして自立を強いるのだ。

怠ける権利が認められると、ニートやひきこもりの人たちが世にのさばるかもしれない。僕はそれでいいと思う。たかだか働かない程度のことで、自室に引きこもっている程度のことで卑屈になることはない。大手を振って堂々とのさばってもいいのである。このようなメンタリティを持つことができれば、自ずと社会とのつながりを再び結ぶことができるようになり、自分なりに働くことができるようになる。

 

「怠ける権利」がどうのこうのなんて浮世離れしたことを言うのは僕がマイノリティに属するからである。雇われて働くことを忌避し、元々意識の低い人間が言う戯言である。

しかしながら、際限のない競争にさらされ、効率性ばかりを求められるガチガチの社会の中で居場所のない人たちが少なからず存在する。

怠けることを全面的に認めろ、と言いたいわけではない。

時と場合によっては怠けることを認めて、怠けている人たちを排除しないということだ。世間のどこかに怠ける人たちの居場所を確保するということである。

 

「怠ける権利」があってもいいはずだ、と僕は強く思う。

生きやすい、面白おかしい世の中にするためにも。

 

誰かに認められようとすることはもうほとんどやめたという件

多くの人たちは自分以外の他者に認められることを欲している。

「承認欲求」といわれるものである。

この承認欲求が原動力となって、人は何かを為そうとする。

承認欲求が意志や力の源泉となる。

人は自分ひとりのために生きていくことは難しい。

 

学生時代に勉強をやり続けたのは良い成績を取って認められたいと思ったからだ。

働くようになって一生懸命に仕事に取り組んだのはやはり上司や同僚に認められたいと思ったからである。

これらのことは、まあ当たり前と言えば当たり前の話である。ほとんどの人たちはそう思っている。人に認められてこそ一人前という考え方は真っ当なものである。

 

僕は今でこそダメダメ人間ではあるけれども、ちょっと前まではひとりでも多くの人に認められようとしていた。勤労意欲がそれほど高くはないのに、それを自分では認められなくて人並み以上に働こうとしていた。

周囲からは「できる人」だと見られたくて、そう見えるように振る舞っていた。そして、その無理な振る舞いが限界にきてしまった。うつになり、ひきこもりになり、一時自分を見失ったのである。

 

落ち込んだ僕は「肩の力を抜いて」生きていこうと思った。

ところが、いざ肩の力を抜こうとしても、一層肩に力が入ってしまうというジレンマに陥ってしまった。肩の力を抜こうと頑張ってしまったのだ。これでは本末転倒である。自分らしく生きようとしたら、その「自分らしさ」にこだわってしまい、余計に肩に力が入ってしまったのである。

ある時、僕はふと気づいた。自分らしさにこだわるということは相変わらず他人からの評価、他人の目を気にしているのではないかと。

承認欲求自分の中に強く残っているんじゃないかと。

 

もう、人に認められることなんか考えまい、としたところ徐々に肩から力が抜けていった。とりたてて特別なことをしたわけではない。

こんなことをしたら人にどう思われるか、とかこれをしなかったら人からどう思われるか、といった類の思考様式を取らなくなっただけなのだ。

人にどのように思われてもそれで死ぬわけではない、人がどう思おうが僕は僕であると開き直ったのである。「開き直り」の力はなかなか侮れない。

 

承認欲求の軛から解き放たれるのはとても難しいと思う。

こんな僕でも未だに承認欲求を持っている。

なんだかんだ言っても、誰かから認められるのは嬉しいし、人に認められようとする行動を取ってしまうこともある。

僕は承認欲求を失くしたわけではなく、承認欲求ありきの考え方を開き直ることによってマイナーチェンジしただけなのだ。それだけでも随分と生きやすくなった。

 

こんな僕が言えることは誰かに認められることだけを心の拠り所にすることをいったん止めてみては、ということぐらいである。

所詮は他人は自分のことなんかそれほど気にしていない、そんなに見てくれてはいないのだから。

カネを稼げるかどうかだけで人の価値を決める社会はどこかおかしいという件

僕はカネを稼ぐ能力に欠けている。それも絶望的に。

資本主義体制下の社会では僕は価値の低い存在であり、無能な人間である。

僕がどんなに性格が良いとか、多少は物知りであるとかなどといった計測不能な事柄で自分の美点を主張しても誰も見向きもしない(あくまで例であって僕は性格が良くはない)。

 

資本主義体制下の社会ではカネを稼いだ者が勝ちの世界である。

だから必然的に拝金主義的な価値観が蔓延することになる。

僕はこの拝金主義的な考え方に違和感を持つけれども、全否定はしない。

何より目に見える価値基準であり、分かりやすい。カネを稼げれば社会の上層にいけるということは生まれや家柄に関係なく誰でも階級上昇できるということだ。学歴も関係ない。僕はメリトクラシー(業績主義・能力主義)によって人が判断されることを肯定している。

 

しかしながら、ものには限度がある。

均一化・画一化された価値観の下で人の価値を決めることに僕は強い拒否感を持っている。

カネを稼ぐ能力は人が持つ様々な能力の内のひとつに過ぎない。

スポーツができる、絵が上手い、音楽の才能がある、勉強ができる等々の色々な才能とカネを稼ぐ能力は等価のものである。

カネを稼ぐ能力に秀でた人を殊更に持ち上げたり、他の分野でも秀でていると思い込んだり、人格者と勘違いしたりしてオピニオン・リーダー的な存在に祭り上げるのはどうかと思う。

普通に考えればカネを稼げるというだけで、その人が何事にも優れているとは限らないのは明らかなことである。

 

カネを稼ぐ能力・才能が優れた特質であるのは確かである。特に資本主義体制下の社会ではそうである。

しかし、人をカネを稼げるかどうかだけで判断することは間違っている。と、何を当たり前のことを言っているのかとツッコミが入りそうだが、この当たり前のことが蔑ろにされているのが昨今の風潮である。

市場経済を疑いもなく信奉し、あらゆるものをカネに置き換える「市場化」や「民営化」に疑いの念を持たずにそれを推し進めることに異議を挟まない人たちがどれほど多いことか。

人を勤めている会社や年収、資産で値踏みしてはいないか、と問われれば多くの人は否定できないはずである。

 

カネは当然に大切なものである。カネを稼がなければ僕たちは生活を維持し成り立たせることはできない。カネがあれば大抵のものは買える。

カネというものを必要以上に崇めるとマルクスの言うところの「貨幣のフェティシズム」に至り、拝金主義に陥ることになる。

 

僕のようなビンボー人ができること、対抗手段としては価値の「相対化」を図ることである。

カネを多く稼げる人はスゴイけど、でもそれ以上でも以下でもないよね、と。

カネは稼げないけれども、すごい人たち面白い人たちはこの世には多くいて、彼らはかけがいのない存在だよ、と。

僕はカネは稼げないけれども、面白い、かけがえのない存在になりたいと強く思っている。

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