希望の舎―再生編ー

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社会保障制度によって困っている人たちがみな救われるわけではないという件〈再掲〉

僕は自民党政権が推し進める社会保障費の削減には大反対である。

セーフティネットを拡充せずに新自由主義的な政策を採ると格差の拡大化・固定化が進み社会が不安定化する。

しかし、社会保障は人々の「心」や「意欲」の問題を解決はできない。

 

初出 2016/10/26

 

僕は人生に躓いた人を救うためにもセーフティネットの拡充は必要だと主張している。

人が生きていく途上で何らかのアクシデントに遭う可能性は高い。たとえ「普通」に生きていても、災害に遭ったり、会社が倒産したり、リストラされたり、病気になったりする。

そうしたアクシデントに遭って、生活に困ったときにセーフティネットがしっかりしていれば安心感が得られる。チャレンジや生き方を変えることもしやすくなる。

 

しかしながら、社会保障制度や支援策があるからといってすべての人が救われるわけではない。

たとえ社会保障制度の適用を受け、公的あるいは私的な支援制度を受けても、生活が破綻したままの人たちは少なからず存在する。

一例として30年ほど前に札幌市で起きた餓死事件が挙げられる。30代後半のシングルマザーが生活保護を切られて餓死したという事件である。メディアは福祉事務所の対応を問題視し、バッシングの嵐が起きた。しかし、後日丹念にこの事件を追ったルポによると事はそう単純なものではない。この餓死した母親は生活保護を受給していたし、就労支援を受けて安定した職に就き、母子手当も受給していた。生活が荒れた理由は男性関係によるものだった。相手の男性が刑事事件を起こし、有罪となったために生きる意欲をなくしたことが根本の原因にあったのだ。懸命に貧困と戦いながら質素に生きていた母子家庭の母親が、華やかな世界に足を踏み入れ、生活が破綻した。よく聞かれる話である。類似のケースは枚挙に暇がない。

 

このケースに限らず、ちょっとしたきっかけで生活に破綻を来たすケースは多い。社会保障の制度の適用を受け、一見生活が普通に成り立っているように見えても、その本人の内面までは制度ではフォローできない。人の持つ「心の闇」に対しては他者は無力なのである。たとえ生活を送れるようにお膳立てをしても、本人の生きる意欲が削がれている場合には手の施しようがないのである。

確かにある程度はカウンセリング的技法は有効かもしれない。けれども万能ではない。そもそも人を救うということ自体に限界がある。結局は本人の生きる意欲が湧き立たない限り、どんな手段も無力である。僕たちは他者に対して、意欲を取り戻す手助けができるに過ぎない。人が人を救済する、という考えは傲慢なのである。

 

公的な制度や支援は人を救うための第一歩に過ぎないと謙虚に捉えなければならない。生活保護を受けさせて、あるいは就労支援をして事が足りるというわけではない。

人が人を救済するという傲慢な考えは捨てて、その本人の生きる意欲を呼び覚ますきっかけを作ることが支援や援助のキモだとする考え方が大切なのだ。この程度の支援・援助ならば可能であると思う。

 

要は他者の抱える様々な問題、あるいは「心の闇」に対して、僕たちはあまりにも無力なのだと知ることが重要なのである。

その上で、他者と関わりあっていく。

「無力」が「微力」に変われば、先は見えてくる。 

どこの会社で働いても、転職を繰り返してもそんなに変わらないという件

しばらくの期間ある会社に勤めていると、他の会社の方が良いのではないかという思いにとりつかれる。ブラック企業ではないまともな会社に勤めていても、自社のアラが見えるようになってくる。あるいはこの会社では自分は評価されていない、自分の能力が発揮できていないという思いも抱くことになる。特にまだまだ若い頃はその傾向がある。

 

確かに同業種の会社間においても待遇に差はあるし、社風の違いもある。業種が違えばそれらの差はもっと大きくなる。

新卒で入社した会社が自分にマッチする確率はそう高くはない。だから大卒の新卒で入社した社員が3年以内に3割の割合で離職するというデータがある。このことを問題視する向きもあるが、僕からすると7割の人たちが3年以上勤務し続けるということに驚きを感じる。とても高い確率の「宝くじ」ではないかと思う。

 

僕の全くの個人的な考えなのだけれども、どこの会社も似たり寄ったりでどこで勤めてもそんなに変わらないぞ、ということだ。

若い頃は青い鳥的なものを追い続ける行動を取るが、ある程度の年齢になれば青い鳥なんていないことが分かってくる。それゆえに30代を過ぎる頃になるとひとつの会社に落ち着く人たちが多くなるのである。

 

現行の資本主義体制下において会社に雇われて働く(労働者になる)ことは大枠で捉えれば会社に搾取され続けることになり、どのような会社であろうとそれは変わらない。会社によって待遇に差はあるだろうけれども、労働者である限り、大金持ちになることはできない。生活のゆとりに多少の差が出る程度のものである。労働者である限り、「生かさぬよう、殺さぬよう」に会社に搾り取られ、どうにかこうにか日々の生活を送ることができるような状態が続いていくことになる。会社を何度も変わっても、この状況に変わりはない。これは労働者の宿命である。

 

どの会社で働いても、転職を繰り返しても自分の置かれている状況が変わらないとしたならば、心身を擦り減らすまで働いても仕方がないという心境に至ることになる。会社としてはこのような心境に労働者を至らせないために様々な手を打ってくる。一昔前ならば愛社精神を涵養したり組織の一体感を作り出すことに心を砕き、昨今ならば仕事のやりがいや自己実現という幻想を振り撒く。会社による「搾取」という事実を隠蔽し、「賃労働」の本質を覆い隠し、会社のために働くことが善だとのイデオロギーを労働者に植え付けようとするのである。

 

労働者はどのような会社で働いても自分を取り巻く状況は変わらない。

ならば、抵抗の手段、対抗の手段、自衛手段をそれぞれ自分なりに備えなければならない。働きすぎて心身を壊したり、最悪の場合過労死・過労自殺に至るような事態を回避する必要がある。

対抗手段や自衛手段としてどのようなものがあるのかというと唯一の正解はない。ひとりひとりの置かれた状況によってそれらは変わってくる。

汎用性のあるスキルを身に付けること、副業をしてみること、8割程度の力で仕事をこなし最低限の評価を得続けること、などなどいろいろと考えられるが、いずれにしても柔軟な発想で物事を考え、これまでのガチガチの硬直した価値観を突き崩すことが大切なことである。

「ゆるい」労働観を身に付けて、仕事なんて人生のほんの一部に過ぎないと考える、良い意味でのいい加減さ・適当さが大切なのではないか、と僕は思っている。

グローバル人材なんてバカでかい会社にとって使い勝手の良い労働者に過ぎないという件

僕の出身大学はやたらと「グローバル」を売りにしている。僕が在学中もその傾向があったのだが、昨今は度が過ぎているように思えてならない。私立大学は何らかの売りがなければ生き残れないと言われている。グローバルを売りにするのは最適な戦略なのか、僕には分からないが、なんだかモヤモヤとするものがある。

 

官民財界そろって「グローバル人材」を養成・育成すべきだとの言説が幅を利かせている。一時期ほどではなくなったにせよ、猫も杓子もグローバル人材がどうのこうのと言い立てている。

大学生の就活においても、特に大企業に採用されたい学生は自分がいかにグローバル人材になり得るのかを面接でプレゼンする、という茶番劇が繰り広げられている。

 

国境をまたいで事業を展開している多国籍な会社では自社の利潤の極大化のために「グローバル人材」を欲している。辞令ひとつで世界のどこへでも赴き、「国際人」になれという甘言を弄して根無し草にする。ゆくゆくは「世界標準」の処遇を強いてくるのは間違いない。今でこそ先進国出身のグローバル人材の待遇をそこそこ良いものにしているが、人材の供給量が増えれば途上国レベルに引きずられた待遇になる可能性が高い。世界をまたにかけたグローバル人材がもたらす売上・利益は大きいものになるが、その処遇は下方へ押し下げる圧力がかかる。つまりグローバル企業は莫大な額の搾取をするようになる。そしてさらに会社自体は巨大化していく。

 

グローバル人材とは、極端な言い方をすれば世界規模で織りなされる「搾取」をされ放題の労働者に過ぎないのである。グローバル企業にとって使い勝手の良い労働者のことをグローバル人材というのである。

グローバル人材=優秀な選別された人材という幻想がまかり通っているのを良いことに、使い勝手の良い、使い捨ての労働者をグローバル企業は囲い込んでいるのである。

グローバル人材と目された「労働者」たちは自分たちをエリートだと思い違いをしてはならない。ただ、世界規模でドサ周りをする労働者に過ぎないのだ。

 

多国籍企業に採用され働く人たちは程度の差こそあれ自分のことを選ばれた者だとの錯覚を抱く。ローカル規模で働く普通の労働者のことを見下す輩もいる。最悪の場合は自分が「労働者」であるという意識すら持たない者もいる。

その歪んだエリート意識を持つことはグローバル企業にとっては願ったり叶ったりのことである。グローバル企業はイナゴの大群のようなものである。コストの低い国々を駆け回り、利益の極大化を図る。同胞の生活向上のための事業という概念はなく、社会的な役割を果たすという意識もない。ただ、儲かればよい、自分の会社が大きくなれば良い。その尖兵、いや「駒」としてグローバル人材を使っているだけなのである。

 

僕はグローバル人材とされる人たちを貶める意図はない。自分がグローバル人材になれなかったルサンチマンを晴らそうとしているわけでもない。

やたらと世の中で「グローバル人材」を礼賛する風潮に違和感を持っているだけなのだ。

グローバル人材を何か特別なものでより優れた働き方だとの幻想を撒き散らし、グローバル企業という怪物をより肥大化させるだけになってしまわないか、と危惧しているのだ。

グローバリズムはグローバリゼーションという流れの中で出てきたひとつのイデオロギーに過ぎず、絶対的なあるいは普遍的なものではない。グローバリズムを絶対のイデオロギーとする流れは危ういものがあり、「国民国家」の理念を融解させてしまう危険性を有している。

 

繰り返すが、グローバル人材は「労働者」に過ぎず、ゆくゆくは均質化され、しかも搾取の度合いが極大化された「労働者」に過ぎないのである。

グローバル人材というものにまとわりつく幻想を取り払い、その本質的なものから目を背けてはならない。

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