希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「シフトダウン」した働き方で新たな生き方が見えてくるという件〈再掲〉

僕たちは自分の生活を成り立たせるために働いている。

衣食住に必要な程度の稼ぎとプラスして自分の趣味に使えるほどの稼ぎがあれば十分なはずである。必要以上の消費欲に囚われているのではないか。刷り込まれた欲望を満たすための消費のために死ぬほど働く、なんて狂っている。

 

初出 2016/10/20

 

僕は何度もこのブログで雇われて働くことが苦痛だと言ってきた。

ならばとフリーランスで稼ぐために何らかのナリワイを持とうと試行錯誤を繰り返している。残念ながら未だに生活費をすべて賄えるほどのナリワイを確立できていない。

自分のナリワイを見つける試みは続けるけれども、先立つものは必要だ。だから、次善の策として嫌ではない仕事をパートタイムでする、ということでしのいでいる。くだらない仕事なんかで消耗しない働き方を選んでいる。

僕のような中年男には正社員で働く道は半ば閉ざされている。仮にあったとしても僕がやりたくない仕事ばかりだ。何より正社員という働き方に僕は全く魅力を感じていない。会社の奴隷になって馬車馬のように働くなんて御免被りたい。

 

僕は40代の初めころまでは人並みに上昇志向があり、成長志向があった。世間で言うところの真っ当な生き方・働き方にこだわっていた。また自分は真っ当な生き方をしてしかるべき人間だと思い込んでいた。決してダメ人間ではない、有能な人間だと勘違いをしていたのだ。

自分のことをダメな奴だと受け入れるのはなかなか難しい。しょうもないプライドが邪魔をする。世間の目も気になる。やはり人からはできる人間だと認識されたい欲がある。

 

僕は社労士事務所を廃業してからしばらくは正社員としての職を探し、何社か正社員として勤めた。しかしどこで働いても違和感にとらわれ、息苦しさを感じ長続きしなかった。

そこで発想の転換を図ることにした。必要とする生活費を切り下げて稼がなければならない額を低く設定することにしたのだ。そして働く時間を短くして負担を減らし、自由な時間を確保して「ゆるい」生き方を志向することにした。「シフトダウン」した働き方、生き方を目指すことにしたのだ。

 

シフトダウンしてから3、4年経つけれども、これが結構僕に合っていてなかなかに快適な日々を過ごしている。長年悩まされていたうつがほぼ全快した。読書量が飛躍的に増えた。このブログも続けることができている。

生活費を稼ぐための仕事にもそれほどこだわりがなくなった。福祉の仕事と単純作業の仕事を交代にしているけれども、職場に愛着もないしこだわりもないので飽きたらあるいは嫌になったら即職場を変える。複数のところから収入を得るように心がけているので、嫌な仕事や自分に合わない仕事を無理してすることもない。

今は友人の塾で講師(これは辞めない仕事)、児童養護施設の子供への学習支援(これは不定期・ボランティア的なもの)、ナリワイ的な仕事をメインにして、空いた時間に気が向いたらパートで介護福祉系の仕事をするか倉庫のピッキング等の単純作業に就いている。

 

今の僕の働き方はとても真っ当なものではない。収入額もたかがしれている。

しかし、僕はシフトダウンした「第二の人生」を楽しんでいる。

ゆるい生き方・働き方ではあるけれども、僕は成長を実感している。

自由な時間が増えたおかげでこの社会に起きている様々な問題について深く考えることができるようになった。今はできていないが、何らかの形で社会活動にコミットしたいと思っている。もっともっと良書と巡り合い、僕の血肉としたい。

僕はシフトダウンすることによって得られた新しい人生を満喫していきたい。

 

 

自立とは誰かに「助けて」と言えることであるという件

僕たちは常に他者から世間から「自立」することを強いられる。

一般的には生活費を自分で稼ぎ、誰からも援助を受けずに自力のみで生活を成り立たせている状況にあることを自立とみなされる。

世間では自立できていないと目される人たちを「ごくつぶし」だの「甘えている」だのと言い立てて責めたてる。

この国の支配層は人々に対して自立せよと急き立てる。一見自立していないように見える人たちを非国民扱いする。

 

人は自分ひとりの力のみで生きていけるわけではない。

常に誰かと関わり合い支え合いながらどうにかやっていけるのである。もし、己ひとりの力で生きていると思っている人がいたとすれば、その人は愚かだとしか言いようがない。

 

昨今の風潮として、「自立」の意味をかなり狭く捉えようとする傾向がある。ある人が自分の力だけでは生活を成り立たせることができないとき、親族からの援助を受けていたり公的な給付を受けていたりすると、即自立できていないと断罪されることになる。

一方、会社の奴隷となっているサラリーマンは自立していることになっている。サラリーマン根性に浸かり、会社組織に隷属するしかない人たちは自律的に生きていないにもかかわらず立派に「自立」しているとみなされる。

「自立」を経済的なものだけに狭くとらえる風潮が幅を利かせているのである。

 

自立を経済的なものだけに限定するとおかしなことになってくる。

障がい者高齢者、生活困窮者等は半人前の人となってしまう。また国家や隣人に寄生する厄介者とみなすようにさえなる。

元々人は共同体に属し、そこに自分の「居場所」を確保し、共同体の一員として自分の役割を果たし、何か困ることがあったときは共同体から救いの手を差し伸べられ、どうにかこうにか一人前の人間として生きてこられたのである。

しかし、新自由主義的な価値観の下、ひとりひとりは共同体から引きはがされて個人として自立して生きることを強いられるようになった。

俗な言い方をすれば、「お互いさま」として支え合うような生き方は否定され、自分の力のみでどうにかするのが正しい生き方であると刷り込まれ、多くの人たちは途方に暮れているのである。

 

今、ひとりひとりが個として自立することが絶対的に正しいという価値観を見直す時に来ているような気がしてならない。

本当の自立とは、自律的に生きつつも、困ったとき行き詰ったときに誰かに「助けて欲しい」と素直に言えることではないか、と僕は思う。そしてもし身近の誰かが困っているときにはこちらが手助けをする。「お互いさま」の精神でさらっと助け合うのである。

誰かの手を借りることを恥じたり、そのことが自立の妨げとなると感じるのはただ単に洗脳されているだけなのである。

狭い意味(誤った意味)での自立を強いることによって得をする者たちの意のままになってはならない。

 

 

 

内申書は長時間労働やサービス残業等の労働環境劣化の源である件

僕は公立中学校に通っていて府立高校に進学したのだけれども、そのときに内申点の比重が大きかったことを覚えている。僕とそんなに成績が変わらないのに、内申が悪くて1ランク下の高校に進んだ友人がいた。 

昨今の内申書は授業態度や意欲を殊更重視する傾向がある、ということを何度も見聞きしている。授業中に手を挙げる回数とか、提出物や宿題をきちんとしているとか、授業を聞く態度とかを細かく点数化しているということだ。

 

僕が学生時代にはそんな意欲や授業態度はそんなに問われなかったように思う。定期テストの点数で自動的に内申点が決まっていたとの記憶がある。僕は決して授業態度は良くなかったし、意欲なんか微塵も見せなかった。ガリ弁は格好悪い、教師に気に入られるなんて恥だという美意識があったのだ。その割には僕の内申点は高かった。

確かにテストの点数だけで評価するのは公正なものではないという論にも頷ける点がある。やる気や意欲、コツコツと取り組む姿勢や真面目さを評価すべきなのかもしれない。いや、それらを重視すべきという考え方は正論である。

 

僕はこの「正論」が社会に及ぼす悪影響が結構あるのではないかと思っている。

会社での人事考課は内申書と似通った点が多い。テストの点数だけで評価しないというところは仕事における成果や実績だけを評価しないという点で類似している。かつての会社での人事考課ではやる気や意欲、勤務態度等の情意面を評価しその比重が大きかった。今は人事考課に成果主義や業績主義が採り入れられているが、情意面の評価がすべてなくなったわけではない。相変わらず情意面の評価を重視している会社も多い。

 

中学校の内申書では授業態度や意欲に加えて生徒会活動やクラブ活動の実績も評価の対象となる。つまりはいかに学校の活動にコミットしているかが評価されるのである。地域活動やボランティア等も評価するらしいが決して主たるものではない。

要するに教師や学校にとって従順で扱いやすい生徒が内申書で高得点を得る仕組みになっている。たとえテストで高得点を取っていても反抗的であったり態度が好ましくない生徒は高い評価を与えない。

当然と言えば当然である。

学校制度、特に義務教育制度は国家や会社に従順な「人民」「良民」を大量生産するためのものであるからだ。どんなスローガン(例えば「自ら学ぶ力」や「自ら育む力」の類)を掲げようとも本質的には変わらない。

 

一方、会社においての人事考課の本質も内申書と同質のものである。

長時間労働サービス残業が蔓延する理由のひとつに人事考課で情意面を評価することにある。多くの職務は他のそれと差別化できない。その差別化できない仕事をしている労働者は差別化するために長時間働いて会社にコミットしていることをアピールするという挙に出る。本来ならば自分の業績や成果をアピールすればよいだけれども、元々個人単位ではなくグループ単位で仕事をしているというこの国の会社での仕事のやり方ではどうしても「頑張り」や「意欲」あるいは「協調性」をアピールすることになってしまう。

 

大阪府では公立高校の入試改革があり、一部の高校で合否判定に内申書の比重をかなり下げて入試での成績を重視することになった。僕の個人的な意見だがこの改革は良いことだと思う。内申書なんて付け足し程度のものでよい、と僕は思っている。

現行の内申書の評価方式に囚われすぎると、生徒の「自律性」や「抵抗するメンタリティ」を奪ってしまいかねないからである。

また、将来において会社の論理に容易にからめとられてしまうメンタリティが根付いてしまう可能性もある。

教育の目的は断じてサラリーマン根性に毒された労働者を大量に生み出すことではない。

 

賛否両論はあるけれども、僕は情意面を殊更に評価するような内申書なんて害ばかりが大きいと思っている。

内申書に内在するものが果ては会社や役所での人事考課につながり、労働のあり方や雇用環境をいびつなものにしているのである。

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