希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「働かざる者、食うべからず」は残酷な言葉であるという件

ニートやひきこもり、ホームレス等の人たちに対して「働かざる者、食うべからず」という言葉を持ち出して非難する人たちが未だにたくさんいる。非難するだけならまだましな方で、支援策など無用だとかひどい場合には野垂れ死にしてもやむを得ないという極論を吐く輩もいる。

先人たちが血と汗を流して獲得した「生存権」という権利は不可侵のものだと僕は思っている。僕は人権思想そのものはひとつのイデオロギーに過ぎず、神聖視するのはいかがなものかという考えを持っているが、こと生存権に関しては絶対的なものだととらえている。

 

世の中には働けない人、働かない人が必ず一定数存在する。分かりやすいところでは、高齢者・障がい者・重い病気の人、子ども等々である。これらの人々に対してはさすがに「働かざる者、食うべからず」と言いたがる人たちも何らかの社会保障公的支援策が必要だと認めるだろう。

これらの「分かりやすい人たち」に対しては手を差し伸べることが当然という考え方は一見真っ当なものである。しかし、この考え方は国家や自治体、コミュニティが手を差し伸べるべき人を「選別」することにつながる危険性を秘めている。例えば劣悪な労働条件下で働き続けて心身に病を抱えて働けなくなった人たちはどうなるのか。弱った体に鞭打って仕事を探して再就職しようとしている健気な人には支援をして、働く気がない人たちは放置する、ということになりかねない。どちらも生活に困っているのに、選別するということは果たして正しいことなのだろうか。

 

ニートやひきこもりのように働けない人にとって「働かざる者、食うべからず」という言葉は残酷なものである。この言葉は一見真っ当でケチのつけようのない正論であり、反論することすら憚られる。

しかしながら、「正論」を無条件・無批判に受け入れ思考停止することはとても危険なことである。そんな風潮が蔓延している社会はロクなものではない。

労働至上主義、勤勉至上主義がはびこっているこの社会では、この正論を振りかざし悦に入っている者がマジョリティとなっていて、「働かなくてもいい」なんて言葉を吐くと異端視され、ひどい場合には排除されてしまう。まるで人は働かなければ生きている価値がない、とでも言いたげに。

 

人は無条件にその存在を肯定される、と僕は思っている。たとえ働かないでいようが、一見無為な時を過ごしていようが人は生きていても構わないのだ。働いているから生存を認められる、あるいは他者から生きる価値があると認められるから生存を許されるなんてことは絶対にない。

「働かざる者、食うべからず」という言葉が死語になった社会が誰にとっても生きやすい、寛容さがあり、健全な社会である。

もう少しだけ「学歴」の話をしようと思う件(高校編)

僕は学歴至上主義者ではないが、やはり学歴に関してはこだわりがある。

仕事を得る際には「選別」を受けざるを得ないけれども、その基準として学歴を用いるのは悪いことではない。家柄や生まれ、あるいは階級などを基準とする社会よりはよっぽどましであると考えている。

 

僕が学歴というものを意識し始めたのは高校入試のときである。僕は公立高校で家から近いところに行きたかったのだけれども、当時の担任や周囲の人たちは学区のトップ校に是非に行くように僕に勧めたのだ。

僕はそのトップ校に憧れを持っていたけど、いざ入学してついていけるのかが不安だった。中学校の時には塾にも通わず、予習復習の習慣を持たないままやり過ごしていたので、急に日常生活に勉強が入り込む生活が想像できなかったのだ。

 

なんだかんだで結局僕は学区のトップ校に進学した。

入学してからしばらくはカルチャーショックの連続だった。

まず、授業をクラスのみんなが静かに聞いていることに驚いた。僕が通っていた中学は校内暴力の嵐が吹き荒れていて、半分くらいの授業が成立していなかったからだ。

次に授業の進度が、特に数学と英語のそれが異常に早かったことである。1年生の2学期の途中までに1年生の内容をすべて終わらせる進度だった。

それに加えてそんな進度の早い授業にほとんどの生徒が難なくついて行っていて、先生からの質問にすらすらと答えていたことも驚きだった。

僕は「えらいこっちゃ」と思い、英語と数学は予習するようになった。そうしなければ授業についていけなかったからである。僕は生まれて初めて毎日家庭学習をするようになったのである。

 

僕が入った高校は明治時代に創立された旧制中学であって伝統校で進学校であった。ただ、大阪の郡部に位置していたので大阪府のトップ校(北野高校や天王寺高校のような)ではなくローカル進学校ではあったけれども。

大阪の公立のトップ校はどこも自由で生徒の自主性を重んじる校風である。僕が入った高校も自由で校則らしいものもほとんどなく、居心地の良いところであった。勉強も強制されず、よく言えば「自由放任」悪く言えばほったらかしであった。そのことによって僕の学校嫌いはかなり矯正された。

 

かの高校の良いところは、文化祭や体育祭のような行事に真剣に取り組むことであった。これらの行事の前には夜遅くまで残って準備をしていた。たとえ大学入試を控えている3年生であってもその期間は勉強を犠牲にしても文化祭や体育祭を盛り上げることに注力する生徒が多かったのである。

僕はこの点にトップ校・伝統校の美点があり、また矜持が存するように思う。

勉強に限らず、物事に取り組む「意欲」が高いところがキモなのである。

大学への進学実績が高いことや社会に出てリーダー的な存在になる生徒が多いのは単に学力の差だけではなく、このような「意欲」、物事に取り組む姿勢の差によるものなのである。

僕の友人たちを振り返ってみても、いわゆるガリ勉タイプの奴は皆無で、適当に勉強をして、適当に遊んでいるような奴らであった。クラブ活動に熱心に取り組んだり、ちょっと難解な本を読んだり、映画や音楽に熱中したり、と決して勉強オンリーの高校生活ではなかったのである。

 

僕は何も自分の通った高校自慢をしたいわけではない。

僕は運良く良い高校に入れたこと、そこでナイスな友人たちと出会えたことをただ感謝しているのだ。僕の人生に多大な影響を及ぼしていることを今になって再確認している。

学歴と言えば出身大学を問われることが多いけれども、出身高校がどんなところであったか、どのような高校生活を送ったかも重要なことなのである。

 

僕は100%の高校生活を送れたわけではないけれども、なかなかに素敵な高校生活だったと今も思っている。

今の僕の「自己肯定感」はこの高校時代に育まれた部分が多い。

今はビンボー生活を送り続け、ダメ人間まっしぐらの僕ではあるけれども、何とかプライドを保ちながら、自分を見失わずにいられるのも、あの高校3年間があるからだ、と確信している。

遅刻に殊更厳しく、時間厳守ばかりが問われる社会は息苦しい、という件

社会人としての最低限のマナーとして時間厳守がある。時間にルーズな人はなかなか信用されないようになっている。

 

会社や役所に勤めるようになると、あるいはアルバイトやパートでも、始業時間までに必ず出勤しなければならない。酷い職場では始業時間の30分前や1時間前に出勤することが慣習になっていたりする。これは当然にサービス残業である。

どの職場においても遅刻は厳禁である。一部フレックスタイム制等の例外はあるが、遅刻は制裁の対象となる。特定の業種に比較的「ゆるい」職場があるにはあるが、一般的には始業時間の管理は厳しくなされている。

 

欠勤については遅刻以上に厳しい対応がなされる。急病等のやむを得ない理由による欠勤でも普通の感覚を持っている労働者ならば肩身の狭い思いをする。無断欠勤でもしようものならば、まるで罪人のような扱いをする。

会社組織の管理運営上、遅刻や欠勤を戒めることは理に適っている。遅刻や欠勤が野放しにされていたら企業活動の効率性が悪くなるのは自明のことである。統制が取れなくなるのは致命傷にもなりかねない。

 

ここまで述べてきたことはあくまで会社側経営側にとっての理屈である。労働者は働きたくないときでも所定労働日ならばイヤイヤでも仕事をしなければならない。例えば、ある程度の期間の生活費を賄えるほどの賃金を確保したから、残りは仕事を休むという選択はできない。尤もこれは正社員の話であり、パートや派遣等の非正規雇用ではできない相談ではない。

日雇い的な働き方では、ある程度のカネができれば仕事をしないという手もある。その日暮し的生き方だ。ただ、世間ではその日暮らしをする人たちはネガティヴな評価を受けやすい。怠け者だの意欲がないとかの言葉が投げかけられる。

 

戦前までの社会では、一部のホワイトカラーの「月給取り」を除いて、渡りの職人や工員は日給で働いていた。今で言う不安定雇用層が大企業の現場職や中小企業の社員の主力層であった。

当時は欠勤や遅刻など日常茶飯事だったのである。また当時の現場では「親方制」を採っていて親方が仕事を請け負う体制が主流であった。労働者を直接統制するのは親方であり、会社が直接に労務管理を行う体制になったのは戦時中である。

親方たちは請負業務を完遂するために色々な手段で労働者を働かせるように仕向けることになる。いちいち欠勤や遅刻を詰っていては、他の職場に移ってしまう。おそらくは欠勤者がいることを前提として、人員のやり繰りをしていたものと考えられる。皆勤手当や歩合給等の上乗せ分を支払って、労働者のやる気を引き出したりした。

 

労働基準法の規定では、遅刻や欠勤に対する制裁が明文化されている。遅刻の時間分や欠勤分の賃金控除以外に1日の賃金相当分の50%を上限(一賃金支払期の10%を上限)として制裁を行うことが認められている。この規定以上のペナルティを課せば労基法違反となる。

つまり、遅刻や欠勤は強い表現を用いれば「処罰」の対象となることが、法律上(労基法上)担保されたことになる。

また、遅刻や欠勤が度重なれば懲戒解雇をなす正当な事由ともなる。

 

労働者は遅刻する「権利」や欠勤する「権利」は認められていないことになる。

さらに言えば、「怠惰の権利」「怠ける権利」が否定されていることになる。辛うじて年次有給休暇の権利が認められている。

労働者にとって、遅刻や欠勤は「悪」であるとの価値観を植え付けられることになる。

現行の資本主義体制において、労働者は「勤勉」さを求められていて、極言すれば体制に従順であることを求められている。学校教育においても体制に従順な人たちを生み出していくことが求められている。

まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

しかし、ひねくれ者の天邪鬼である僕からすればまことに面白くない。

たかだか遅刻や欠勤しただけで罪人扱いされるのは息苦しいしゆとりのない社会だと思ってしまう。

労働条件や労働環境の改善を要求する手段として、職場の労働者が一斉に遅刻するという企てもなかなか面白いし痛快だ。

 

たまの遅刻や欠勤にいちいち目くじらを立てることは、あまりにも狭量である。

休まずに遅れずに働き続けることが尊いという価値観に違和感を覚える僕は、単なる怠惰な人間でダメ人間なのである。

 

   

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します