希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

社会的弱者に対するバッシングほど卑劣な行為はないという件

社会的に弱い立場に置かれた人たちに対しては配慮が必要であり、また人に値する生活を保障することは自明のことである。

貧困は自己責任という考え方は前時代の遺物である。

社会構造のひずみによって多くの弱者が生み出され、そのひずみを少しずつでも失くしていく営みを続けなければならない。「革命」や「大変革」「維新」といった大転換ではなく、漸進的な改革を着実に進めていく態度を保ち続けることが肝要なのである。右翼や左翼、保守・リベラル等のイデオロギーに関係なく。

 

社会的弱者に対するバッシングがひきも切らず起こり続けている。

典型的なものとしては生活保護受給者に対するバッシングである。ごく一部に過ぎない不正受給を殊更に取り上げ、さも不正受給が横行しているような印象を与えようとする。生活保護受給者が保護費をちょっとだけ遊興費に充てたりすると、けしからんと憤る。果ては生活保護受給者は「人間のクズ」だの「人生の落伍者」だのとのレッテル貼りをする。

弱者を叩くことによって留飲を下げ、優越感を抱き、自分の不満を解消するような人たちが少なくない数存在することに僕は暗澹たる思いがする。

 

社会的弱者だとカテゴライズされる人たちは殆どがこの社会の少数派に属している。

また、彼らはごく一部のケースを除いては政治的に劣位に置かれ、大きな声を上げることができない。

社会的弱者はふだんは目立たないようにしていて、バッシングに対する反撃を手控えている。反撃できるような基盤を持ち得ていない場合も多い。

特に生活保護受給者はうしろめたさを抱き、スティグマを刻み込まれていて息をひそめて生活している。

 

社会的弱者をバッシングする人たちは、彼らをいくら叩いても彼らから有効な反撃がないと確信しているから、執拗にバッシングをし続ける。

そのような輩は自分よりも強き者に対しては隷従し、対等なものに対しては何も言えないのである。人としての最低限の矜持を持たず、人として有していなければならない「やさしさ」や「思いやり」に欠けた人種なのである。

社会的弱者のような反撃することに対する自制が働いている集団を見つけて、それをバッシングすることはとても卑怯な行為である。端的に言えば、タチの悪い「弱い者いじめ」以外の何物でもない。

 

こんなことを言えば、「弱者権力」があるのではないか、という批判を口にする人たちがいる。確かに被差別部落在日コリアン等の力のある団体が存在し、それらの団体の利権漁りや組織の腐敗もあるだろう。これらの団体が有する問題点に対しては批判も必要だし、問題点をなくすように働きかけることも必要である。しかしながら、弱者バッシングとこれらの問題を混同してはならない。影響力のある弱者権力的な組織があることを理由に弱者バッシングを正当化してはならないのである。

そもそも弱者が連帯し、ある組織を立ち上げたのは生存が脅かされたからである。人としての尊厳を踏みにじられたからである。結果として弱者権力が生まれたからと言って、社会的弱者が手を取り合い、組織化し、自分たちの声を大きくすること自体を全否定してはならない。

 

この社会に生きる大多数の人たちはちょっとしたきっかけで社会的弱者に陥る可能性を秘めている。ごく一部のエスタブリッシュメントやそれに連なる人たちを除いて、殆どの人たちは社会的弱者予備軍だともいえる。

社会的弱者に対するバッシングはまわりまわって自分の首を絞めることになる、という想像力に欠けている。

社会的弱者へのバッシングは卑劣な行為だとの社会的コンセンサスが成り立つ社会が健全で生きやすい社会である。

他者の自由を奪うことは快楽につながるという件

僕は自由に生きること、自由であり続けることを大切にしている。完全なる自由など幻想にすぎないと分かってはいるけれども、限定はされていても自由であり続けたいのである。

 

人は人が大切にしているものを奪うことに快感を覚える、という側面がある。倫理的には良くないことだが、友人の恋人を奪ったり、不倫をしたりするとえも言えぬ快感を得ることがある。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども(このブログは僕の全くの個人的な意見を発露する場である)、大きな価値を持つとされる自由を奪う行為はとてつもない快楽を得るものだと思っている。

人々を支配し統制することはその最たるものである。

支配ー被支配の関係は他者を隷属させることによって支配者は満足感を得るものであるが、他者の自由をはく奪し、その自由を自己のコントロール下に置くことに快楽を覚えるのである。この快楽は毒性の強い麻薬のようなものである。

 

これも全くの僕の独断なのだけれども、恋愛関係においても相手の自由をコントロールすること、あるいは相手の自由を奪っている状態になると心が燃え上がる。自分のために相手が自由であることを放棄しているさまが楽しくて仕方がないのだ。

建前上は「君のあるがままの姿でいてほしい」とかなんとか言ったりするが、本音では自分の支配下に置いて、自分のために縛られた状態であることを甘受している姿を見て悦に入るのである。

このような状態は対等な関係ではない。

しかしお互いに相手の自由を奪い束縛し合うことで愛情を確かめ合っている面もあることは否定できない。

親子関係においても同様のものがある。

子どものためだと称して必要以上に子どもを抑圧する親が結構な数存在する。ちょっと前に話題になった「毒親」がそうである。子どもが健やかにのびのびと育つことよりも親のエゴ、つまり子供を抑圧する(自由を奪い、支配下に置くこと)快感が上回ってしまうのである。

 

僕は自由を大切にしているので、大抵は僕の自由を奪い、僕をコントロールしようとする様々な言動に対して抗うことになる。恋愛関係でもそうだし、その他の人間関係においてもそうである。

しかし、人は皆自由を希求し、自由を奪うものに対しては抵抗するとは限らない。ことはそう単純ではない。

「支配されたがる人たち」は後を絶たない。「分かりやすい言葉」で人々を扇動する「強いリーダー」に盲従し、自由を差し出すことなんて古今東西数多く見られる現象である。

恋愛関係において束縛されることに喜びを見出す人なんて星の数ほどいる。

 

他者の自由を奪うこと、自分の自由を奪われることは快楽につながる。

とてつもない力を持つ魔力なのである。

これは人の持つ業なのかもしれない。

人の持つ本質的な何かなのかもしれない。

この魔力に骨の髄まで侵されないということはとても困難なことである。

しかしながら、僕たちはこの恐ろしい魔力に抗うことを忘れてはならない。

 

ある人たちのことを「非国民」とレッテル貼りをすることの危険性、という件

戦時中、国家の意に沿わない言動をする人たちを「非国民」呼ばわりして攻撃の対象としていた。たちが悪いのは人を非国民として詰っていたのは一般大衆だったことだ。当時の「常識」に外れる人たちはすべて非国民だったのである。

この「非国民」という言葉は死語に近いものとなっている。しかし、人を非国民呼ばわりするようなメンタリティはなくなってはいない。例えば会社等の組織の論理に馴染めない人たちを排除し、社会人失格のレッテルを貼る行為は同根のものである。

 

さて、この国の誇るべき人物であるバカボンボン総理のアベが唱える「一億総活躍社会」というスローガンである。こんなに内容がスカスカの空疎なスローガンは噴飯ものである。でも、アベの頭の悪さを揶揄している場合ではない。実はこのスローガンがこの国の真っ当と言われる人たち、いわゆる多数派に意外とフィットしているのだ。

「生涯現役社会」だの「ひとりひとりが輝く社会」といった類のスローガンに同調する人たちと親和性が高いのである。

 

僕は人が良いので「一億総活躍社会」といった空疎なスローガンを臆面もなく言うアベちゃんが腹に一物を持っているとは考えない。おそらくアベちゃんは本気であるいは善意からこのスローガンを作り出したのだと思いたい。

このスローガンが時の経過と共に霧消すれば問題はない。ああ、あの頃なんか言うてたな、といった感じで人々の記憶から消えてしまえばいい。

ただ、「一億総活躍社会」というスローガンが少しでも実効性があるものになったとしたら、少々厄介になる。

 

厄介になると言っても、多数派にとってではない。僕のような少数派、会社に馴染めず、世間から少しでも離れたいと思っている人間にとっては厄介になるのではと怖れているのだ。

つまり「活躍」しない、あるいはしようとはしない人たちを「非国民」扱いしやしないかということである。

僕の考えすぎなのかもしれない。

しかし、この国の多くの人たちは「空気」に流されやすい性質を持っている。もっともらしいスローガンに盲目的に隷従する性質を持っている。このことは過去の歴史が物語っている。

 

ただでさえ、世間ではとても同調圧力が強い。

正しいかどうかは二の次で、「みんな」が決めたこと「みんな」が思っていることに従わないと異端視される社会である。

「みんな」が自分たちの価値観を疑うこともなく、その価値観から外れた人たちを非国民としてバッシングすることは「みんな」にしてみれば容易いことなのだ。

 

それらのことは「一億総活躍社会」というスローガンへの対応だけに限った話ではない。

政府(権力者・支配層)が推し進める政策等に異を唱える人たちに対する執拗なバッシングは後を絶たない。最近は特にその傾向が強い。

異論が封殺されるような社会は歪な社会であり、とても不健全な社会である。

「非国民」であるとして人にレッテルを貼る行為は、異論を封殺する最も卑劣な行為である。また、人を思考停止に至らしめる危険な行為である。

 

「非国民」とは一体誰のことなのか。

安易に他者に対して「非国民」のレッテルを貼る行為は自分の首を絞めることになることを忘れてはならない。エスタブリッシュメントの手のひらで踊らされていることを忘れてはならない。

 

 

 

 

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