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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

他者の自由を奪うことは快楽につながるという件

生きるということ

僕は自由に生きること、自由であり続けることを大切にしている。完全なる自由など幻想にすぎないと分かってはいるけれども、限定はされていても自由であり続けたいのである。

 

人は人が大切にしているものを奪うことに快感を覚える、という側面がある。倫理的には良くないことだが、友人の恋人を奪ったり、不倫をしたりするとえも言えぬ快感を得ることがある。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども(このブログは僕の全くの個人的な意見を発露する場である)、大きな価値を持つとされる自由を奪う行為はとてつもない快楽を得るものだと思っている。

人々を支配し統制することはその最たるものである。

支配ー被支配の関係は他者を隷属させることによって支配者は満足感を得るものであるが、他者の自由をはく奪し、その自由を自己のコントロール下に置くことに快楽を覚えるのである。この快楽は毒性の強い麻薬のようなものである。

 

これも全くの僕の独断なのだけれども、恋愛関係においても相手の自由をコントロールすること、あるいは相手の自由を奪っている状態になると心が燃え上がる。自分のために相手が自由であることを放棄しているさまが楽しくて仕方がないのだ。

建前上は「君のあるがままの姿でいてほしい」とかなんとか言ったりするが、本音では自分の支配下に置いて、自分のために縛られた状態であることを甘受している姿を見て悦に入るのである。

このような状態は対等な関係ではない。

しかしお互いに相手の自由を奪い束縛し合うことで愛情を確かめ合っている面もあることは否定できない。

親子関係においても同様のものがある。

子どものためだと称して必要以上に子どもを抑圧する親が結構な数存在する。ちょっと前に話題になった「毒親」がそうである。子どもが健やかにのびのびと育つことよりも親のエゴ、つまり子供を抑圧する(自由を奪い、支配下に置くこと)快感が上回ってしまうのである。

 

僕は自由を大切にしているので、大抵は僕の自由を奪い、僕をコントロールしようとする様々な言動に対して抗うことになる。恋愛関係でもそうだし、その他の人間関係においてもそうである。

しかし、人は皆自由を希求し、自由を奪うものに対しては抵抗するとは限らない。ことはそう単純ではない。

「支配されたがる人たち」は後を絶たない。「分かりやすい言葉」で人々を扇動する「強いリーダー」に盲従し、自由を差し出すことなんて古今東西数多く見られる現象である。

恋愛関係において束縛されることに喜びを見出す人なんて星の数ほどいる。

 

他者の自由を奪うこと、自分の自由を奪われることは快楽につながる。

とてつもない力を持つ魔力なのである。

これは人の持つ業なのかもしれない。

人の持つ本質的な何かなのかもしれない。

この魔力に骨の髄まで侵されないということはとても困難なことである。

しかしながら、僕たちはこの恐ろしい魔力に抗うことを忘れてはならない。