希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕の「ひきこもり」体験を語ってみる件

僕はそれぞれ短期間であるが2度ひきこもりに類した経験をしている。

小学校5年生のときに不登校になった際が1度目、40代半ばのとき社労士事務所を畳んで再就職後にうつをちょっとこじらせたときが2度目である。

前者の不登校時の記憶がもう殆ど残っていないので、最近のひきこもりたい件について語ってみたい。

 

このブログでも時々言及しているが僕は40代半ばの頃社労士事務所の経営に行き詰まり、それに加えて心身に不調を来して事務所の継続を断念した。そして神戸の福祉施設で働くことになったのだけれども、そこでさらに心身の不調が悪化し退職して実家に戻ることになった。

実家に戻ってからは療養と称して1年間ひきこもり同然の生活を送ることになった。

 

数年前の1年間はちょっとだけ辛いものだった。働く意欲が喪失し(今もそんなに勤労意欲はないけど)、何をするにも億劫で、全く読書をする気もなくなっていた。テレビとラジオ、ネットで1日を費やす日々。外出といえば通院と日常品の買い物程度である。このままではいけない、と思っても体と心がついてこない。このまま廃人となって一生を終えるのか、という不安感にも襲われた。

結局、僕の場合はうつが寛解に近い状態となって徐々に意欲が戻ってきて現在に至っている。

今も半分はひきこもり状態ではある。雇われるという形でフルタイムでは働けないので、週に2,3日のペースで働いている。それ以外にはネットからの収入が少々あって、事務代行・文書作成代行・相談・学習支援等の便利屋的な仕事を不定期にしている。

世間では真っ当とはされない働き方ではあるが、うつを再発させないため、二度とひきこもりにならないために無理をしないような働き方を選択している。

 

僕のひきこもり体験はあくまで僕の個人的なものであって普遍化はできない。僕の場合は「軽度」のひきこもりであって、それほどこじらせなかったことでどうにか社会とのつながりを保ちながら生きている。

 

ひきこもりはそれぞれの人たちの環境や背景が異なっているので定型化できないところにその難しさがある。

以前のエントリーでもふれたがひきこもりが「病気」なのではない。

ただ、ひきこもりが長期化しこじれると精神疾患が表れることがある。いわば「二次的症状」が現出するのである。

一方、精神疾患発達障害を要因としてひきこもりに至る場合もある。

いずれにせよ、表に現れた精神疾患の症状や発達障害による不適応を「治療」や「改善」しさえすればひきこもりから脱せる、という単純なものではないのである。

 

僕は自分のひきこもり体験を美化などしたくない。

ひきこもることによって気づきや何か大切なものを得たといった類の美談にはしたくない。

ひきこもりにならない方が良いに決まっている。

ただ、ちょっとしたきっかけで誰でもひきこもりになることがある、ということを実体験したという意味においては多少なりとも意義がある。

ひきこもりに至る理由はすべてが社会システムの歪みのせいではないし、すべてが個人の資質によるものではない。

ひきこもる「自由」を全面的に否定してはいけないし、ひきこもりを全面的に正当化してもならない。

僕にはこの程度のことしか言えない。

様々な働き方がある、と知っているだけで気が楽になるという件〈再掲〉

雇われて働く人たちが多数派を占めるようになったのは遠い昔のことではない。働く=正社員という視野の狭い考え方に縛られていると、いざというときに困ることになる。

 

初出 2016/7/21

 

普通「働く」という言葉を聞くとどこかの会社や役所に雇われてそこで仕事をする、というようにとらえることが多い。

元来は働くこと=雇われるではないのだけれども、資本主義が発達して工業社会になったことによってこの考え方が人口に膾炙するようになったのだ。大多数の人たちは自分で何らかの生業を持ち自律的な働き方をしていたのが会社・大工場に雇われる労働者として働くようになったのである。

 

現在のこの社会に生きる人たちは生まれた時から発達した資本主義社会、高度消費社会の下で生きている。基本的なものの考え方は資本主義体制に適応したものになっている。

学校を卒業すればどこかの会社や役所等の組織に雇われて働くことが当たり前だと思い込んでいるのである。そしてその雇われた会社になじんで、そこで高い評価を得て出世することが真っ当な社会人であると思い込まされている。もしも会社で低い評価しか得られないとしたならば、その人は社会人失格、ひどい場合には人として劣っているという烙印を押されることになる。

 

会社での評価が即自分の人としての評価だと思い込むと、とても生きづらくなる。また、会社等の組織に雇われる働き方しかないと狭く考えてしまうと、組織になじめない人たちは行き場を失くしてしまうことになる。

会社に雇われる働き方なんて、数多ある働き方の内のひとつに過ぎないのだ、と大ざっぱに考えた方が良い。組織で雇われて働くことが苦にならない人はその働き方を続ければよいし、どうも息苦しいと感じる人は別の形で働けばよい、ただそれだけのことである。

 

高校や大学でのキャリア教育は「雇われて働く」形の働き方に主軸を置いたものとなっている。確かに雇われて働く人たちが多数派であることに間違いはないが、少数派の雇われて働きたくない人たちのことにも留意する必要がある。雇われて働くのが嫌なら、起業せよというのも短絡的に過ぎる。

もっとゆるく考えて、生活を成り立たせるためのカネは公序良俗に反したり違法行為でなければ、どのような手段を用いて稼いでもそれはありなのである。

 

巷ではフリーランスや自営は不安定だと言われている。社会的信用もないのが現実である。しかしひとつの会社にぶらさがってそこでのサラリーのみに頼っている生活の方が危なっかしいと僕は思う。一見安定しているようで、実はとてもリスクが高いのである。

このような考え方をする人たちが結構存在していて、例えば「ナリワイ」を持つ生き方だとか、「月3万円ビジネス」を複数持つ働き方だとか「週末起業」などといったひとつの会社からのサラリーだけに頼らない生き方が色々と提案されている。このことはとても良い傾向だと思う。

 

今勤めている会社を辞めることには二の足を踏むのならば副業を始めても良い。ひとつの仕事で生活費を賄うことが難しいのならば、仕事を複数持てば良い。例えば週に2,3日はどこかに雇われて、残りはフリーランスとして仕事をする、という働き方も結構面白い。すべての仕事を会社勤めにするとかフリーランスにするとか、二者択一的に白黒はっきりさせることなどないのである。

 

働き方が色々あって、どのような働き方を選ぶかは自由であって、しかも働き方の組み合わせができるとゆるく考えることができればとても気が楽になる。既成概念にとらわれることなどない。

生き延びる術を自分なりに考え、選択していくことは実は楽しくて面白いものである。

  

 

 

「会社のために尽くしたのに・・」という泣き言はとても見苦しいという件

ビジネスシーンを描いたドラマや小説でリストラされた社員が「あれだけ会社に尽くしたのに」というセリフを言って非情な会社に恨み言を吐く場面が時々ある。

僕の周囲にはそのような言葉を吐く人は見当たらない。

このことはたまたまであって、会社社会の不条理にさらされ、意に反した離職を強いられる人たちは多く、会社に尽くしたのに云々と言いたくなるような人は多いのでは、と推測する。

 

ある調査によればこの国の労働者は意外と会社に対する忠誠心は低いという結果が出ている。その一方で今在籍している会社で働き続けることに「なるだろう」と考えている人も多い。

つまり、元々は会社に対する忠誠心はそれほど高くはないが、長期間の勤続を志向する傾向が強く、結果として組織の論理に絡めとられて会社ありきの自分、というメンタリティが形成されるということだろう。

会社という組織は昔ほどではないにしても、未だに多くの会社は社員に強くコミットメントを求め、さらには忠誠心を求めているのである。社員は会社組織での評価を得るために忠誠心を示さねばならない場面に直面する、といったところだろうか。

そして自分の忠誠心が報われない事態に遭遇すると、「自分はあれほど会社のために頑張ったのに」と思ってしまうのである。

 

長期間勤め続けていて退職勧奨や指名解雇を受けると、自分自身が全否定された感覚に襲われる、ということは理解できる。実際はある特定の会社において評価されないだけ、つまりローカルルールでの限定的な評価に過ぎないのだけれども、サラリーマン根性にどっぷりと浸かってしまうと自分の存在価値を疑ってしまうのである。

 

会社のために尽くすという行動様式が合理的で自身の利益に適うものなのかは今となっては疑わしい。

江戸時代の幕藩体制下では組織(藩)の間の移動は強く制限されていて、移動の自由はなかったという。再仕官は困難を極めた。そのために幕府は様々な浪人対策を講じている。また、脱藩は重大な犯罪とされていた。有名な坂本龍馬土佐藩からの脱藩は命がけの行為であり、通常は考えられないような突飛な行動だったのである。要するに主君や藩に忠誠を誓い、忠節を尽くすことは生き残りのために最適化戦略だったのである。その名残が明治維新、資本主義の興隆、軍部の跋扈、敗戦、高度経済成長を経ても消えることはなかったのである。

 

この国の人たちは元々は個人主義的、あるいは利己主義的である、と僕は考えている。他方でムラ社会、武士階級の規範の影響から集団の論理に絡めとられやすいという特質を有している。内面と外部からの圧力との軋轢が強く存在する社会である、ともいえる。

元々は自分勝手に生きたいのだけれども、組織に尽くすような生き方を強いられる。そして一旦組織から放逐されてしまうと、強く疎外感を覚えるようになるのではないだろうか。

 

僕は労働者の立場でのものの見方をし、リストラをされたサラリーマンに悲哀を感じ共感する。

しかしながら、「会社のために尽くしたのに」という恨み言をいつまでも言うような人たちには同情はするが、共感はしない。そのような言動は見苦しいとさえ思ってしまう。

たかだかひとつの会社という組織に見放されたからといって人生が終わったわけではない。自由を犠牲にして組織の論理に絡め取られた生き方が正しいもの、楽しいものとは思えない。

本来持っている自由気まま、勝手気ままな生き方をしたいというメンタリティを思い起こしてもいい。

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