希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「成功モデル」なんてそんなものは実は存在しないという件

多くの人たちは「成功」を目指して学習をしたり仕事をこなしている。 

その成功の形は人それぞれであって、本人が納得しさえすればいいはずのものである。しかし世の中にはお節介な人がいて(それらのひとたちは「識者」と呼ばれている)、成功には何か決まった形があり、それを目指すことが本当の成功だと吹聴したがるのである。

 

世に流布する「成功モデル」は経済成長至上主義イデオロギーが幅を利かせていることもあって、その殆どは経済的成功と自己実現を伴うものとなっている。

有名大学を卒業して有名企業に総合職として就職し出世を重ねる。

起業して自分の会社を大きくする。

弁護士や医師、公認会計士等の知的な専門職に就いて顧客をたくさん抱える。

これらが典型的な成功モデルとされていた。

それと私生活では適当な年齢に達すると配偶者を得て子どもを持ち、持ち家を購入し、老後は悠々自適の生活を送る。

要するに自己実現ができるやりがいのある仕事をして懐が豊かになり、私生活も充実させる、ということが成功だというのである。

 

これらの紋切り型の成功モデルに拒否反応を示す人が増えていると言われるが、一方で従来の成功の形に囚われている人たちも未だに多い。

「成功」に至らないと自分は「負け組」に転落し、一生浮かび上がれないという強迫観念に囚われる人が結構な数存在する。こういった人は高学歴者に多い。高い学歴を得たからにはそれなりの成功をしないと世間から白眼視されるという思い込みがあるのだ。

 

僕もかつては成功を目指し、自分に鞭打っていた。

世間から立派な人に見られたい、「できる人」と思われたいとして無理を重ねていた。社会的な成功=豊かな人生との刷り込みがあったのだ。

僕の考える成功モデルが前述のような経済的な豊かさを得ることのみを「成功」ととらえる型に嵌ったものだったのである。まさに視野狭窄に陥っていたのである。

 

よくよく考えてみると、「成功モデル」なんて眉唾物である。

今となっては「成功」ばかりを目指すことは品の悪い所業だと僕は思っている。

確かに「成長」するための一つの手段としてまっしぐらに成功を目指して自己啓発に励むことはありだとは思う。しかしながら、その成長志向を経済成長至上主義的なものに全て絡み取られるのはいかがなものか、と強く感じる。

 

世間一般に言われる「成功」から外れた(競争に敗れたにしても、意識的にしても)人たちを敗者と一括りにして嘲笑するようなことがあってはならない。

世間に流布する「成功モデル」、特にメディアが垂れ流すようなそれは幻想に過ぎないものである。

 

「成功モデル」なんて実は存在しないフィクションである。

あるいはそれは資本主義体制下の経済成長至上主義イデオロギーに過剰適応しただけのものに過ぎない。

人は経済成長に資するためだけに存在するのではない。

経済的豊かさを得るような成功だけを求めて生きているわけではない。

こんな当たり前のことをわざわざ言うこと自体、どうかしている。

「ブラック企業」は存在するべくして存在するという件

一頃に比べてかなり落ち着いてきた感があるが、ブラック企業についての言説は根強く世の中に流布している。

ブラック企業のなしている所業は確かに許されるものではない。労働者を酷使し、使い捨てて、単なる雇用問題・人権問題には留まらず、この社会の衰退を招く大問題ではある。

 

ブラック企業が多いという業種はサービス関連のものが多い。ということは僕たちの生活に密着しているということだ。

ブラック企業が追求しているのは、人件費を極限まで抑え、労働者の労働条件を劣悪なものとし、それで浮いたコストをサービスや商品の価格を抑制することに使って、自社の競争力を高めて、会社の利益の極大化を図ることである。

ブラック企業で働く労働者にとっては過酷なものとはなるが、消費者の立場になってみると低価格で一定レベル以上の商品やサービスを手にすることができる。要するに消費者にとっては、ブラック企業はありがたい存在であるという側面がある。

消費者はまた労働者の顔を持つので、世の中にブラック企業ばかりが並び立つと困るのだけれども、一部にのみブラック企業が存在することが望ましいという状態になる。つまり、労働者としてはブラックではない会社に勤めて、消費者としては安くて品質の良いモノを買えれば別にブラック企業が存在しても構わないという心持になる。ここにブラック企業を巡る問題の根の深さがある。

 

消費者としての僕たちはわがままである。

できるだけ品質の良いモノを、レベルの高いサービスを低廉な価格で購入したいと思っている。

一流のレストラン並みのサービスをファミレスで求め、高級ブティック並みのサービスをファスト・ファッションの店でも求める。ファスト・フードの店でも店員の接客のレベルは高いものを求める。

僕個人の考えとしては、価格の安い店ではその商品やサービスの接客は最低限のレベルで事足りるし、高いホスピタリティを求めるのならそれなりの価格がする店に行けば良いと思っている。

サービスに見合った代金を払わずに、質の高いサービスを求めるのは虫が良すぎる話である。

 

また、ブラック企業は質はどうであれ、雇用の受け皿になっているのは事実である。特に正社員という身分にこだわるのならば、ブラック企業は大量の「正社員」を雇用している。

この雇用の受け皿としてある程度機能していること、前述の消費者の要望に応えている点にブラック企業の存在意義がある。

 

確かにブラック企業をこの世にのさばらせてはならない。まともに労働者を処遇している会社の業績を圧迫するし、何より労働者の雇用の劣悪化は重大な社会不安を引き起こす要因となる。

しかし、ブラック企業のみを糾弾しただけで事が足りるというわけではない。

消費者の過大すぎる要求を実現することにも限界があることを、僕たちは知らねばならない。

ブラック企業に限らず、この国の労働者の置かれた状況を抜本的に解決し、労働者の権利を守らなければならない。

これらの消費者の性向、労働者の権利擁護がなおざりにされている状況が改められないかぎり、ブラック企業は存在意義を見出し、ずっと存在し続ける。

 

ブラック企業は高度消費資本主義社会あるいは日本型資本主義社会が生んだ鬼っ子である。決して特殊なケースではない。

ブラック企業の存在意義がこの社会にある限り、ブラック企業はしぶとく存在し続けて、社会に根を張り続ける。 

頑張りすぎると結果が伴わないという件

僕たちは幼少のころから何事にも頑張れと言われ続け、頑張ることが良いことだとの刷り込みがなされる。

この頑張り至上主義は精神主義であり、根性論である。

とても非合理的なことであり、往々にして様々な問題を生じさせることになる。

 

とは言え、この頑張り至上主義はキャッチアップ型の経済成長期には有効なものであった。均質な商品を大量生産する工業化社会では頑張りの量がそのまま生産量、ひいては利潤に直結していたからである。また、工業化社会では同質性をベースにした組織が強みを発揮した。この同質性をベースにした組織で他者との差異化を図ろうとするといかに頑張ったかが評価基準になりがちであった。

教育面でも、知識の量が成績の差に表れるし、入試の際にはそれが合否の分かれ目となった。頑張って勉強して知識を大量に詰め込めばそれなりの学歴を得られたのである。その学歴を基にして同質性を軸にした組織である会社に選ばれ所属し、そこでまた頑張り続けるということになるのである。そこで、人生とは頑張ることである、というイデオロギーが生まれ、このイデオロギーが正しいものだとされる偏った風潮に毒された社会が形成されたのである。

 

工業化社会を脱した現代でも、この国では頑張り主義が根を張っている。

自分の頑張り度を会社や上司に見せるために長時間労働サービス残業も厭わない働き方を続ける。利益追求が存在意義である資本主義体制下の会社では成果や業績のみが問われてしかるべきなのに、意欲ややる気の情意面が評価の対象となっている。この情意面の評価を良くしようとひたすらに自分の頑張りを見せつけようとするのである。このようなことがまかり通ると非効率的になり生産性が低くなることは当然のことである。生産性の低さをカバーするために投下する労働「量」を増やそうとする。結果、長時間労働が蔓延する、という負の連鎖が続くことになる。

合理的で効果的な戦略を生み出せない、イノベーションを起こせない、そんな袋小路に嵌った現状を労働者個々の頑張りで切り抜けようとする無能な経営者があまりにも多すぎる。

 

会社経営に限らず、何事でも「頑張り」が強調されすぎると碌なことにはならない。学校生活における学習、クラブ活動においても頑張りばかりが強調されると学生も教師も疲弊するだけである。育児や介護も同様に当事者の頑張りばかりに依存すると質の良いケアが確保できないことになる。

 

頑張り至上主義は悪しき精神主義の亜種である。

戦前の軍部が犯した過ちを全く反省していない、歴史の教訓を全く活かせていないのだ。行き過ぎた精神主義は時として破滅をもたらすという恐ろしさを多くの人たちは忘れ去っているのである。

 

かといって僕は全く頑張らない生き方を肯定するわけではない。

人は時と場合によっては頑張らなくてはならないこともある。適度な頑張りはやはり必要なのである。しかし、その頑張りにも限度がある。まあ、「頑張りすぎない」程度に頑張ればいいのではないか、と思う。

頑張れば結果がついてくる、という尤もらしい物言いは眉唾物だと考えておいた方が良い。ほとんどの頑張りに対しては結果が伴わない、と冷徹に捉えておいた方が良い。特に頑張りすぎると結果が伴わないことが多い、ということは肝に銘じておくべだ。

頑張ることは善、というイデオロギーに疑いを持ち、時には頑張らない勇気を持ってもいい。

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