希望の舎―再生編ー

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「面倒くさい」ことは実は楽しい件〈再掲〉

僕の口癖は「面倒くさい」「じゃまくさい」である。

しかし、そうは言いながらも結局は頼まれごとなどをしている。

「面倒くさい」ことが実は楽しい、と心の奥底で思っているのかもしれない。

 

初出 2016/3/31

 

僕は基本的には面倒なことは嫌いだ。

働くことも面倒くさい、結婚することも面倒くさい、と大変なことから逃げている。嫌な事を避ける逃げ口上としてよく「面倒くさい」という言葉を使う。

 

では一見面倒くさくないこと、例えば会って話すのが面倒なので携帯メールを使ったりLINEを使ったりしてコミュニケーションを取ったりするが、味気なさを感じるのも事実である。

この世には面倒くさいことと思われるような事柄でも、実はその面倒さこそに楽しさがあるということが多い。

 

子育てや教育は実に面倒くさいものである。

自分の思い通りになることなんてまずない。手間隙かけても、カネをかけても報われることもない。また「報い」を求めてはならない性質のものである。子育てや教育の成果なんて決まった形があるものではないし、その成果を固定したものととらえてしまっては取り返しのつかないことにもなる。要は生き延びる力さえつけば万々歳としておく程度のものでよいのではないかと僕は思っている。

 

今ではすっかりご無沙汰だが、恋愛もとっても面倒くさいものである。

相手が何をしたら喜ぶかを常に考えて行動しなければならない。愛情を分かるように表現し続けなければならない。かけがえのない存在だと分かってもらわなければならない。独りよがりの行動をしてはならず、常に相手ありきで行動しなければならない。

 

仕事においても、面倒くさいことをこなしてようやく成果を得られることが多い。誰にでも簡単にできる仕事をしても良い評価は得られない。面倒くさいことだらけの様々な障壁を乗り越えて、ようやくその仕事を達成したという充実感が得られることになる。

 

なるべくならば面倒くさいことはしたくない。

しかし、実際には面倒くさいことをこなして克服することによって充実感を得ることができる場合が多い。世の中はそのようにできている。

そして時として、面倒なことには関わりたくないのに、面倒なことを持ち込まれることに喜びを感じるという倒錯した心理を抱えたりしている。

面倒くさいことは実は楽しいことなんじゃないかと思えたりもする。

 

忘れてはならないことは、面倒くさいことから逃げることは悪だとか弱い人間だとレッテル貼りをするような精神論・根性論に傾いてはならないことである。面倒くさいことから逃げる道を用意し、逃げることを認めるような寛容さも大切になってくる。

 

僕たちは面倒くさいことを面倒でないようにすることが「進歩」や「発展」だと思い込んでいる。

面倒くさいことに首を突っ込み、ああだこうだと試行錯誤しながらその面倒事を解消するのは実は楽しいことである。

人がなす様々な営みの原点でもある。

たまには面倒くさいことから逃げてもいいけれど。

 

 

 

  

いくら努力してもその努力はほとんど報われない件

この国ではやたらと努力を尊ぶ風潮がある。

何かあると「努力しろ」だの「努力不足」だのといって責め立てる。

「努力教」という宗教に芯まで浸かっているかのようだ。

 

何かを成し遂げるためには成功にまで至るプロセスが大事である。やるべきことを考え、そのやるべきことをしっかりこなし後は天に任す。結果が芳しいものではなかったとしても、そのプロセスは無駄にはならない。

このプロセスを「努力」という言葉に置き換えてしまうと違和感が生ずることになる。どうしても努力という言葉には精神論・精神主義的な色合いが付いて回る。この精神主義的な要素が濃くなると努力すること自体が美化され、努力をすれば必ず報われるというなんとも非合理的な信念を生み出すことになる。

 

冷静になって考えてみるとよい。

努力なんてほとんどが報われない。

身も蓋もない言い方になってしまうが、ある人の能力を超えた結果が生まれることなんて稀なことなのである。設定した目標がその人の能力の範囲内であれば努力は報われることもある。しかしながら、自分の能力の範囲内に収まるような目標設定をすれば「意識が低い」とか「意欲が低い」とか「向上心がない」等々の批判を受けてしまう。かといって高い目標を設定してそれに到達できなければさらなる努力を延々と強いられる。

努力教が絶対のものとして浸透している社会では常に僕たちは急き立てられるように生きていかなければならない。

 

当たり前の話だけれども、人には向き不向きがある。自分に向いたことに精力を注ぎこんでいると、あまり自分が「努力」しているという意識を持たないものである。健全な努力と言ってもよい。ところが僕たちは自分の向いていることばかりをやっていればよいとは限らない。勉強にしても仕事にしても不向きなことをせざるを得ないケースが多々ある。しかも「成果」をださなければならないケースが多い。

この社会では一般的に自分のウィークポイントをなくすように強いられる。特に会社社会ではその傾向が強い。得意なこと、向いていることをひたすらに伸ばすことが一部のレアケースを除いてなかなか認められない。減点主義的なものの見方をしがちな社会なのである。もっと極論を言えば、突出した美点を持つ人(ただし欠点もある)は異端視され、平均的な人を大量に生み出すことをよしとする均質的な社会である。

均質的な社会を維持するための構成員を「努力」を強いて大量生産する社会なのである。

 

「努力をした人が報われる社会」にとバカな政治家は言う。

ならば努力しても報われなかった人はどうなるのか。

努力することができない環境にいる人たちどうすればよいのか。

努力教、努力至上主義は空疎な精神論に過ぎない。

 

努力はほとんどが報われない、というリアリズムを忘れないことが大切なのである。

努力は時と場合によっては当然に必要なものであるけれども、努力が尊くて絶対的なものではない、と醒めた目で見ることが大切である。

また報われない努力も時にはすることが必要だし、その報われない努力こそが生きていくうえで何物にも代え難いものになることがある。

自分に対して甘くなったらちょっとだけ寛容になれるという件

自分に厳しい人たちを見るとすごいなぁ、大変だなぁ、とつくづく思う。

有名なアスリートやアーティストはおしなべて厳しい自己管理をしているし、自分に対して厳しい。

世に出回っている自己啓発ものには自己管理の徹底や自分を律することが肝要だと説くものが多い。

 

僕はこう見えて(どう見えているのか分からないけど)若い頃は常に自分に厳しくあろうと努力していた。

ミスは他人のせいにはしないこと、常に前向きに頑張ること、自己啓発を怠らないこと等々を自分に課していた。

自分に厳しいと人にも厳格さを求めがちである。僕もその傾向があった。人の些細なミスが許せない。時間にルーズな人を見るとイライラする。仕事が出来ない人を見るとこれまたイライラする。真っ当に生きていないと見える人たちを見ると、「けっ!」と蔑んでいた。

今から思うとこれらの所業は自分に厳しいということだけではなく余裕やゆとりがなかったのだ。

 

自分に厳しくあろうとするのはこれはこれでいいのだけれども、他者にきっちりとした厳しさを求めそれを強いるのはお門違いである。

自分の生き様というか価値観を人に押し付けるのは愚行である。

「人は人、自分は自分」なのである。

 

僕は40代の半ばの頃、それまでの自分の生き方に嫌気がさしてキレて、ガラガラポンしてしまった。

自分を強く律し、自分に対して厳しくするという生き方がどうも自分らしくないとようやく気付いたのである。元々が怠け者でいい加減な人間なのに、それらを認めることを拒み、世間でいうところの「できる人間」「真っ当な社会人」を演じていただけだと思い知ったのだ。

 

僕はどうしようもない自分というものを受け入れることにした。自分に対して高いハードルを課すことをやめにした。要するに厳しさを捨てて、ちょっとだけ甘めに自分を見ることにしたのだ。そうすると自己肯定感が生まれ、世間の隙間や端にでも自分が生きていけるスペースがあると確信できるようになった。僕はちょっとだけ自分を好きになり、見どころがないわけではないと甚だ自分に甘くなった。

この自己認識の甘さを備えると人に対して優しくなったような気がする。少々のミスでは腹が立たないし、自分の思うようなことをしてくれなくても「まあ、しゃーないな」と思えるようになった。たとえ善意ではあっても自分の思いや考えを押し付けることははしたないことだと思うようになった。

 

もしかすると僕の生き方や考え方は成長(資本主義的な)をしない代物かもしれない。競争社会での落伍者になる可能性が高い。それでも、常に自分を律して自分磨きをしなければならないというイデオロギーもどきを僕は拒みたい。

ダメ人間である自分という存在を受け入れ、人には優しく、という生き方を飄々と続けていきたい。

 

 

 

 

 

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