希望の舎―再生編ー

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介護職、聖なる職ではなく賤なる職でもない件

僕は以前このブログで介護や福祉の仕事は特別なものではなく普通の仕事に過ぎないと書いた。介護職を特別視すると様々な弊害が生じるとも書いた。

今回のエントリーではなぜケアワークが神聖視されたり、逆に卑賎視されたりするのかを考察してみたい。

 

奈良時代から平安時代にかけての頃の話から。

当時、障害や病気等でケアを要する人たちに対しての施策は殆どなかった。社会保障制度が無きに等しい時代であった。悲田院など一部でケアを要する人たちを収容する施設はあった。これは社会保障社会福祉ではなく「お上」からの、ありていに言えば天皇家からの恩恵・施しによってなされたものだった。皇室財産からの寄付によって賄われたのである。皇室からの慈善目的の寄付は戦前まで盛んにおこなわれている。この天皇家からの寄付によって運営された病院や福祉施設は沢山ある。

 

奈良時代光明皇后によるハンセン病患者への施しの伝説にあるように、障がい者や病者をケアする行為は「聖なる」ものとしてとらえられた側面がある。しかし、実際のケアの担い手は「非人」たちであり、非人たちは賤視された人たちであり、被差別民だったのである。同時に障がい者・病者・高齢者等へのケアは「穢れた」仕事でもあったのである。

なぜ「穢れた」仕事・行為だったのか。それは人の生死に直接かかわる行為であったからだとされている。人の「血」や生死に触れる行為は穢れたものだという社会意識が共有され、この穢れた行為・仕事に従事したのは賤視された人たちであり、あるいは穢れた行為に関わったからこそ賤視されたのである。

 

現在介護に直接かかわるケアワーカーに対しては神聖な仕事である、と同時に汚れ仕事であるという見方がある。

後者に関しては排泄介助をしたり(いわゆるシモの世話)するから汚れ仕事だというのは表層的なものに過ぎない。深層においては障がい者や高齢者の生き死にに関わる仕事であるから「穢れ」仕事とみられてしまうのである。生死に直接関わる食事や排泄等のケアを行う仕事であるからこそ、古代から綿々と続く「穢れ」意識にとらわれるのである。

 

同じように人の生死に直接関わり「血」に直接触れる仕事に医者や看護師がある。やはりこれらの職も近世以前は賤視されていた。医者が社会的威信の高い仕事になったのは明治以降であり、看護師の待遇が劇的に改善されたのは最近になってからのことである。迷信的な穢れ意識を超克して「立派」な仕事として医師や看護師が見られるようになったのは、まずは報酬の高騰があり、それに伴う社会的地位の向上があったからである。

 

介護職については未だに神聖視された面と汚れ仕事の面がないまぜになっている。それがゆえに劣悪な待遇が放置され続けている。極論としてはボランティアで賄えとか外国人労働者を受け入れろといった声が絶えない。

北欧諸国ではケアワーカーは専門職として取り扱われ、待遇も良い。おそらく神聖視はされず汚れ仕事として賤視もされず、ひとつの普通の仕事として社会に認識されているからだと思う。

将来は介護職も医者や看護師のように「穢れ」意識から脱して、人と直接関わる職種のひとつに過ぎない、と見られるようになると現状を打破できる。

介護職は「聖なる職」ではないし、「賤なる職」でもない、との共通意識が社会に浸透すればようやく普通の「対人専門職」の一員となれる。

 

「即戦力」幻想に惑わされてはならないという件

昨今は新卒者の採用においても「即戦力」を求める傾向にある。この場合の即戦力は会社の教育・研修を最小限に止めて、短期間で現場の戦力にするという意である。

 

大学や高校でも会社側のこの利己的な要望に応えようとあれこれ対策を講じている。

グローバル人材の育成を謳ったり、職業訓練的な内容の授業・講義を増やしたり、訳の分からないキャリア・デザインなんてものもある。

一時L型大学なんて議論もあった。

元々学校制度は国家に従順な人を多く生み出すために整えられたものである。今は会社社会に従順な人を生み出す、言い換えれば従順な労働者を生み出すシステムとして学校制度がある。こう考えれば大学や高校が目先の利益を追求して、会社が求める即戦力を養成する機関に堕しているのも頷ける。

 

大きな力に抵抗しない牙を抜かれたような状態にされた人たちが即戦力人材といえるかもしれない。

そんなに競って即戦力になる必要があるのか、僕は疑問に感じている。

あまりにも会社の論理に絡め取られているし、会社のエゴに踊らされている。会社の教育研修費削減のツケを払わされているに過ぎない。

 

様々な仕事をして職歴を積み重ねた結果としての即戦力化なら話は分かる。社会経験が乏しく仕事歴が浅い人たちにまで即戦力を求めるのはやはりおかしなことだ。

 

即戦力の人材とは会社にとって使い勝手の良い都合の良い人たちに他ならない。

会社にとっての基幹的な人材には即戦力を求めていない。多くの会社では基幹的な人材には教育研修だけでなく、念入りなジョブローテーションを行い、長期的に育成している。

かつてのこの国の会社では「幹部候補」として新卒者を雇い入れ、上述のような長期的な視点で育成していた。それが余裕がなくなり一部の幹部だけが対象となり、その他の社員を即戦力という名目で「安く」「使い易い」社員を生み出そうとしているのである。その究極の存在がパートや派遣等の非正規雇用の社員である。

 

ただ即戦力的な人材になるメリットもある。会社に過度にコミットメントしたくない生き方や働き方を志向する人たちは即戦力的な存在になればよい。自分のスキルを頼りに幾つもの会社を渡り歩くという働き方もできる。社畜化しない生き方や働き方を模索できるだろう。ただし、よほど気をつけないと使い勝手の良い社畜となるおそれもある。こうなったら目も当てられない。

 

世のサラリーマンは自分が「即戦力」の人材だと悦に入っていてはダメだ。巷でよく言われているように即戦力の賞味期間は短い。さりとて会社人間や社畜と化して、会社に自分の人生をコントロールされるのもいかがなものかと思う。

陳腐な表現となってしまうが、結局は仕事の能力とそれにプラスαの「人間力」という曖昧なスキルがものをいうことになる。

この「人間力」はいい加減で曖昧なものであるがゆえに、自分なりに形作ることができる、と考えると意外と先が見えてくるのだと思えてならない。 

会社に過剰に適応することは危険だという件〈再掲〉

僕たちは様々な環境に適応する力を備えている。

組織に順応する能力はそのうちのひとつである。

しかし、ものには限度がある。過度に適応をしようとすると、そこには様々な弊害が生じることになる。

 

初出 2016/2/16

 

僕たちは生まれてからずっと自分が置かれた環境に適応することを求められる。

幼稚園や保育所、学校でもそれぞれルールがあり、先生や他の生徒との関係を築かなければならない。働き始めてからは尚更に会社等の組織に「適応」しなければならない。

 

一部の人たちは組織になかなか馴染めないでいる。

僕は程度は軽いが社会不適合者である。まあ、程度が軽いと思っているのは僕だけかもしれない。

個人対個人の人間関係では悩んだことは殆どないが、組織の中での立ち位置をなかなか見出せなかった。会社という組織の持つ特有の空気やルールに馴染むことができなかった。

 

一方で組織に過剰ともいえるほどの適応をする人たちがいる。良く言えば忠誠心が高い人たち、悪い表現を用いれば「社畜」や「会社人間」となる。

一見、組織に適応することは良いことである。

協調性をもって周囲の人たちとうまく付き合い、仕事をこなす人たちはこの社会では真っ当とされる人たちである。

 

今から振り返って考えてみると、僕たちは学校で特に小中学校で社会に適応できる人間となるための「教育」らしきものを受け続けてきた。

勉強ができるだけではダメであって、掃除をきちんとすることや給食を残さずに食べること、班活動をしっかりとすること、クラスの委員としての責任を果たすことなど様々な社会適応者になるための訓練を受けてきた。

僕は不登校の経験があるのだけれども、無意識のうちに学校があるいは先生が強いてきた社会適応者になるための様々なものに対して拒否反応を示していたのだと、今にして思う。

 

組織に適応しさえすればO.Kというわけではない。何事にも限度というものがあり、ほどほどでなければならない。

中には組織に過剰に適応する人たちがいる。前述の通り、会社という組織であれば社畜となる。

ある組織に過剰に適応するとその組織特有の掟を普遍的なルールとしてしまい、一般社会と齟齬を生じることになる。また、組織の中での正しいとされる価値観に盲従してしまう。

会社の不正行為(不正会計や汚職等)はその会社に過剰に適応した者たちがなすのである。

 

組織内での「いじめ」も組織に過剰に適応したがゆえに発生する側面もある。

組織のルールや掟を絶対的なものとして過剰適応した人が少しでも逸脱した人たちを許せなくなりりいじめが起こる。自分たちが盲従している掟に従わない者たちを放っておくと、自分の存在価値が否定されるとまで思い込むのだ。これは学校でも会社でも役所でも同じことである。

自分の生きる場所が学校や会社にしかないと思い込み、狭量さが先鋭化するのである。

 

ある組織に過度にコミットメントすることを避けるためには、自分でコントロールするより他に方法はない。

学校至上主義、会社至上主義的なメンタリティに容易に陥ってしまうことを常に意識しておかなければならない。

なにせ僕たちはこのメンタリティを持つように幼少時から「教育」されているのだから。

  

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