希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

無理してまでも「頑張る」ことなんてない件

僕たちは程度の差こそあれ頑張って生きている。

一見怠惰に過ごしているように見えている人でも、その人なりに頑張っているのだ。

 

この社会では「頑張る」ことがさも当然という風潮がある。もし何らかの理由で頑張っていない人を見つけるとその人に対して「たるんでいる」だの「向上心がない」など「人として終わっている」などといったネガティヴな見方をする。お節介な人は頑張っていない人に対して頑張れよ、と励ましたりして頑張りを強要する。

他者から強要された頑張りはそれはそれは辛いものである。監獄に足かせを付けられて放り込まれたようなものである。

 

頑張ることが美徳だという価値観は未成熟な社会、成長途上の社会では親和性があった。今日頑張れば明日はもっと良い日になっているという期待ができたからだ。

頑張ることが尊いという考え方が正しいと大多数の人が共有できたのは一過性のものに過ぎないと冷静にとらえる必要がある。今は頑張っても報われない人たちのほうが圧倒的な多数派なのだから。

 

勉強にしても仕事にしても頑張りさえすれば自ずと結果はついてくる、という楽観的な考え方・ポジティヴな考え方が実は人々を追い詰めて苦しめている。

いくら頑張っても結果が伴わないことがある。いやむしろその方が多い。運が良くて頑張りが報われることがたまにある。世の自己啓発系の本やセミナー等はその一握りの成功事例を殊更に持ち上げているだけなのである。

 

確かに人は生きているうちに頑張らなければならないときがある。大概の人はそのときには自分なりに頑張ってみる。問題はその頑張りの結果が伴わないときである。自分の頑張りが報われないことによって自分を責めてしまうことが多々ある。自分の能力が足りなかったのかとか、あるいは頑張りが足らなかったのかと自責の念に駆られてしまう。そして次の一歩を踏み出せなくなり、その場に留まるか退歩してしまう。

頑張ることがイコール前に進むこととは限らないのである。

 

僕たちは「頑張ること」の繰り返しが人生だと思い違いをしているのかもしれない。常に頑張り続けなければならないとの強迫観念に縛られているのかもしれない。

頑張るときもあれば頑張らないときもある、というようにごくごく当たり前のことを忘れないように意識する必要がある。

例えば働くことに疲れたら思い切って会社を辞めて、しばらくの間自分の好きなことだけをしてみるとか、無為の時を過ごしてみるなどの「頑張らない」ことを意識してやってみる。

今勤めている会社を辞めてしまったら生活設計ができないと言う人もいるだろう。次の仕事が見つからなかったらどうする、不安だ言う人も多いだろう。少々無責任な物言いになってしまうが、「何とかなる」と僕は思う。実際に何とかなるものだ。

 

今の自分が置かれた状況をそのまま続けて消耗するか、リスクを取ってみて擦り減らない生き方をしてみるか、考えてみる余地はあると思う。

無理を続けてまでも頑張ることなんてない。

 

 

 

 

 

なぜ精神を病むと世間から排除され、偏見に晒されるのかという件

僕が福祉に興味を持ったきっかけは精神の病に罹った人たちへの地域での生活支援や精神病院の歴史について知りたいと思ったからだ。

僕が抱いた素朴な疑問は、なぜ精神「病」の人たちは偏見の目に晒され、差別され、社会から排除されるのかということだった。精神疾患は病気のひとつに過ぎない。病気に罹ることは誰にでもありうることであり、精神疾患もそれに当てはまる。適切な治療とケアを行えば、精神病も治る(寛解というらしいが)し、再発も予防できる。たとえ完治しなくても、薬物やカウンセリング等で症状を抑え、日常生活は送れるはずである。

 

精神病を患う人たちへの偏見や差別は昔から存在していたのだろうか。

過去の文献や資料等によると必ずしも社会から排除されていたわけではなかったようだ。精神病者知的障害者も「聖なる人」として共同体で丁寧に扱われていたというケースも散見される。また、民間療法においての精神病のとらえ方は「気」の障害と考えられていて、一過性の症状で治る病気と見なされていた(キツネ憑き等と呼ばれていた)。

つまり、昔は精神病者を隔離収容せずに共同体に包摂し、地域で生活を営んでいたのである。

近代に至り、欧米諸国では精神病者は社会治安上危険な存在と看做され、精神病院に強制的に隔離収容する政策が採られた。日本もそれに倣った。ただ、日本の場合は精神病院の建設が捗らずに私宅監置(いわゆる座敷牢)がメインとなった。

精神病院は治療の場という役割よりも、社会治安のための収容施設という性質を帯びていたのだ。

当然に人権を無視し、人間の尊厳を損うような事態に陥ることになる。

戦後になって、欧米先進諸国では病棟の全解放化・地域生活の支援がメイン・ストリームとなる。イタリアでは公立精神病院の全廃政策が採用され、イギリスでは人口当たりの病床数の大幅な削減政策を採った。一方、日本での精神病対策はかなり遅れている。未だに入院の必要のない患者が地域や家族の受け入れ体制が整わないために入院を強いられている。これを社会的入院という。その数は20万人に達するとされている。日本では精神病院の殆どが民間経営であり、患者を儲けの手段としてしか考えていない病院が多く存在していたのは事実である。

 

膨大な数の人たちが、ごく普通の、ごく当たり前の地域での生活を営めないという状況にある。貧困な政策や営利至上主義の精神病院のみにこれらの原因を帰すのは誤りである。根強く残る精神病への偏見や差別、無理解、それらを煽るメディアの無責任さも原因として挙げられる。

 

人はたとえどのような障害があっても、どのような病気を抱えていても、地域社会で受け入れられ、普通の生活を営むべきものである。

もし、自力で生活できないのなら必要なケアを受けて自立した生活を営むことができるような仕組みや体制が必要不可欠である。ここで注意しなければならない点は、「自立」とは必ずしも会社に勤めて、そこで得られる給料によって生活費を賄うことを意味するのではない。精神に疾患がある人たち、またはあった人たちは会社で働くことが難しいケースがある。特にフルタイムの勤務はきついし、ただでさえ日本の会社の労働環境は劣悪なので、病をこじらせるおそれがある。その人のできる範囲で就労すればよく、最低限の生活費は年金や公的扶助で補えばよい。カネを稼げなければ「自立」していないという考え方は、今や過去の遺物として葬り去らなければならないと思う。

 

もう一度繰り返すが、精神の病はただの病気に過ぎない。病気に罹れば治療し、静養し、回復すれば元の生活に戻ることは至極当然のことである。精神の病に罹った人たちは、この当然のことをずっと拒絶され続けてきた。かつての結核ハンセン病と同様に。

 

僕たちは「狂気」という病を畏怖してはならない。

日常とかけ離れたものとして、特別視してもならない。

異端視し、社会から排除してはならない。

 

地域社会において、ごく普通に接し、共に生活すること、たったそれだけのことが精神の病に罹った人たちにとってどれほど大切なことかを、僕たちは知る必要がある。

 

僕たちも内に「狂気」を孕んで生き続けていることを忘れてはならない。

 

 

 

   

社会人=会社で働いている人ではない件〈再掲〉

僕たちは無造作に「社会人」という言葉を使い、しかもその意味を狭くとらえている。

ある社会を構成している人たちは皆「社会人」である。働いているからとか税金を納めているから社会人であるということではない。

 

初出 2016/1/25

 

僕もそうだがわりと無造作に「社会人」という語を用いてしまう。深くは考えずに、ただ単に学校を卒業して働いている人を社会人としてカテゴライズしている。

 

ちょっと考えてみると、働いている人だけを社会人とするのはおかしいことだ。

子どもだろうとお年寄りだろうと障害者だろうと働いていなくても立派な社会人である。同様にニートであっても引きこもりであっても立派な社会人である。

 

「社会人」であることを強く意識するのは学生から労働者に移行するときである。

会社は新入社員に「学生気分」からいち早く抜けることを強いてくる。学生気分のままでは一人前のサラリーマンにはなれないと、会社の掟を強要する。

これもおかしな話だ。

サラリーマンだから責任感があって学生には責任感がないという根拠は全くない。勤め人でも無責任な奴はゴマンといるし、学生でもほとんどの人たちはきちんとしている。

極言すれば会社に勤めるようになったならば、会社の掟に盲従する奴隷になれ、と言っているのである。

つまり、社会人とは会社の論理に絡め取られ、そのことに疑いを持たない会社人間なのだとごく狭い解釈になってしまうのである。

 

この国では8割前後の人たちが会社に雇われ働いている多数派である。多数派であるが故に、会社の論理が世の中の正しい規範を形成していると勘違いしている。だから会社に勤めている人が即社会人であるという誤った感覚を持ってしまうのである。

 

僕の身に照らし合わせてみても、大学を卒業して働くようになったときに妙に緊張感を持ち肩肘張っていたことを思い出す。

別に学生気分を持ったままで働いても何の問題もなかったのだ。ルールやマナーを習得してそれらを守っていれば仕事に支障はない。人を社畜化しようとする同調圧力に内心で抵抗しても良かったのである。

 

働いていなくても僕たちは社会にコミットしている。社会の一員として自分の役割を果たしている。会社で働く人とそうでない人を区分けする必要性は皆無なのである。

 

この「社会人」の限定した解釈はとりもなおさずこの国が会社社会であること、労働至上主義に侵されていることを表している。

 

僕は今後、社会人という語を安易に用いないように注意していきたい。そして、この語を限定的に解釈しないように注意を払っていきたい。 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します