希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「みんな」の意見や言葉に従うことはない件

ある意見を封殺する言葉に「みんなはそう思っている」「みんなはそう思っていない」「みんなの意見に従え」等がある。

「私はそう思う」ではなく、「みんな」を用いるところに嫌らしさがある。

この「みんな」を使うことによって、自分の意見は多数派であり常識的であり、自分の意向に従わないと大勢を敵に回すぞ、と圧力をかけているわけだ。自分の意見の妥当性や正当性を論理的に主張するのではなく、自分の意向を情緒的あるいは感情的に従わせるこの態度は頻繁に見られる。

 

そもそも、このような場面で用いられる「みんな」とは誰のことなのか。全員の意見を集約して自分が代表して吐くものではない。「みんな」から委任されているわけでもない。勝手に自分が「みんな」の意見を代弁しているにすぎない。

いや、代弁すらしていない。

ただの自分の独断に重みを付けたいがために「みんな」を持ち出しているだけなのである。

 

本来は相手に自分の考えを伝えるときには、その考えの及ぼす影響や結果等に対して責任を負わなければならない。あるいはその考えの正当性や論理整合性や妥当性を相手に示さなければならない。

「みんな」を引っ張り出す輩は自分で責任を負いたくないだけなのだ。責任回避のための逃げ道は用意しておいて、相手を自分に従わせたいだけの卑劣で品性下劣な人間なのである。

 

「みんな」を引き合いに出しがちな人の話を全部聞く必要はない。「みんな」とはどこの誰らかと問い返せば良い。

大概その手の人間たちは自分の凝り固まった狭い視野しかない価値観や世間の常識らしきものに基づいたことしか言えない。相手の価値観を認める器量や度量がない。

 

この「みんな」がそう思っているという物言いは厄介なものでもある。気の弱い小心者の僕なんかはそう言われると口を噤んでしまう。反論しようものなら、世間のつま弾き者扱いされかねない。

世間の常識の類は、この「みんながそう思っている(思っていない)」という同調圧力の積み重ねの結果形作られていった側面があるのだと思う。

 

僕は「みんながそうしている」と言われたら、それを無条件に受け入れないような態度を取りたいと思っている。

すぐに「みんな」を引き合いに出すような人たちを信用しないようにしている。自分の考えや意見に対して個人として責任を負わないような人たちを信用することは出来ないからだ。

 

僕はこれからもずっと「みんな」とは口が裂けても言わないようにしていきたい。 

僕は若い頃の自分より今のダメ中年オッサンの自分の方が好きである件

近頃はイヤでも自分の老いを自覚するようになった。

ハゲてはいないが髪の毛が細くなりハリがなくなってきている。

老眼になってはいないが、ちょっと細かい字が見えにくくなっている。

疲れが取れにくくなってきた。

女性に対しての関心が薄くなってきた。

おしっこのキレが悪くなってきた。

などなど数え上げればキリがない。

当たり前の話だけれども、確実に老いが僕の身に忍び寄っているのだ。

 

しかしながら、この中年のダメ人間、しがないオッサンになった自分が嫌いではない。

生きづらさがかなり軽減されているからだ。

ちょっとだけだけれども「余裕」らしきものが出てきたからである。

 

若い頃の僕の方が見栄えは今よりはちょっとましだったし、バリバリに働いていて収入もそれなりにあったし、人並みに女性にモテていた。それでも若い頃に戻りたいとは露ほどにも思わない。

若い頃は世間の常識に縛られ、こうあるべきだとのこだわりによって生き方の幅が狭くなっていた。他者からの評価を異常に気にしていて、何か目に見えぬ化け物に追い立てられているような感覚があった。マジョリティの中に身を置いていない不安だった。

何よりも他者に対して不寛容だった。

例えばガールフレンドに対する僕の態度を思い返しても余裕がなかったな、と痛感する。

相手のちょっとしただらしなさや価値観の相違を受け容れることができなかった。

今の僕ならばたいていの女性とはうまく付き合っていけるという自信がある。けれどもこんな中年のダメ人間に付き合ってくれる奇特な女性がいない、という現実にぶつかる。うーん、なかなか世の中うまくはいかないものなんだな。まあ、仕方がない、諦めも肝心、ひとりでも楽しいからいいんだ(殆ど強がり)。

 

僕は人生経験を積んだから今の心境に至った、とは一概には言えない。一種の「諦念」に至ったからという点が大きいように思う。

人生はなるようにしかならない。

どう足掻いても、どれほど努力を積み重ねても、自分の思うような成果を得られることは滅多にないのだ。これが人生である。

 

僕は老いを怖がることも抗うこともせずに淡々と日々を過ごしていこうと思っている。

そして益々自分のダメさ加減を愛そうと思っている。

ダメ人間でも役立たずでも、生きているだけでもうけもの、という心境に至るために。

 

 

今真っ当に生きている人はたまたま運が良かっただけだという件

僕は常々思っている。

僕がどうにかこうにか生き延びてきたのは、たまたま幸運が重なった結果に過ぎないと。

良い両親の元で育ち、大学まで出してもらえて、生活に困ったときは援助をしてもらえた。そのおかげでドツボに嵌ることなく、50年近く生命の危機に晒されることなく生きてこられた。この事実を感謝せずにはいられない。

 

社会的地位や経済的に恵まれた人たちは己の運の良さに感謝しているのだろうか。

どうやらそんな謙虚さを持ち合わせている人は少数派だと思わずにはいられない。

いわゆる真っ当に生きている人たちの多くは今の自分があるのは自分の力によるものだと思い込んでいるのではないか。自分の置かれた環境が恵まれてたまたまうまくいっている、との思いが欠けているのではないか。

 

僕は貧困問題に強い関心を寄せている。

様々な事例を見ていくと、貧困状態に陥った人たちは「特別」な人なのではない。能力が劣っているわけでもない。

たまたま劣悪な環境に身を置いた結果として貧困に陥ったケースが多いのである。

例えば、自分の両親が経済的に恵まれていない、暴力を振るう、心身の病気に冒されていた等々である。子は親を選ぶことができない。たまたま自分が問題を抱えた親のもとに生まれたことによってハンデを負うのである。このハンデがその人の一生を通じて影響を与え続けるという不条理が存在する。

 

僕が許せないのは恵まれた環境下でのうのうと生きている人たちが、生活に困窮し絶望的な状況に陥っている人たちに「自己責任」を押し付ける卑劣な態度である。

特にエスタブリッシュに連なる人たちのそのような態度に接すると殺意に近い感情を覚える。

世襲の政治家や経営者は生まれながらに特権層に属している。バカでも品性下劣な人間性を有していても高い社会的地位や経済的な恩恵を自動的に受けることができる。さらにはこのバカたちが社会の支配層を形成する。エゴと欲にまみれ、弱者への想像力や共感力の皆無なこれらの連中が今のどうしようもない、ろくでもない社会を形作っているのだ。そして、このろくでもない社会で自分たちだけはいい思いをしたいといういわゆる真っ当な人たちがこの社会を補完している。何の罪の意識もなく。

 

今の自分があるのは自分の力のおかげだと思い上がっている特権層とそれにぶら下がり補完している者たちがのさばっているのが今のこの社会である。ろくなものではない。

自分の立場がたまたま運が良かっただけだという謙虚さを少しでも持ち合わせていれば、今のろくでもない社会は違ったものになっているはずである。

 

自分に対する「肯定感」を持つこと自体は大切なことである。しかしながら、たまたまうまくいっている人生に対して、自分を過信することは愚かな行為である。

 

僕は自分が生き延びることができているのは、たまたま運が良かっただけだという謙虚さを失わないようにしたい。

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します