希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「決められた人生」に抗っていきたい件

多くの人は自分の人生は己自身で決めていると思っている。「自己決定」の結果だと思い込んでいる。

果たして本当にそうなのだろうか。

時には疑いの眼差しを向けてみることだ。

 

僕たちは多かれ少なかれ親や世間の言いなりになっている。あらかじめ、あるべき生き方を決められている面がある。

世間の常識や良識に沿った生き方を押し付けられている。親や世間によって自分の人生の幅が狭まっていることが忘れられている。

 

大多数の親はこどもに「真っ当」に生きて欲しいと願っている。ここで言う「真っ当な」とはかなり狭い意味になっている。典型的なものは会社(できれば大企業や有名企業)に正社員として、あるいは公務員になって大過なく勤め上げて欲しいという願望である。

僕たちはこの親の願望や世間の常識・良識を幼い頃からずっと刷り込まれ続け、それに疑問を持つものなら異端者扱いされてきた。そして、知らず知らずのうちに「決められた人生」を歩むことになっていく。正社員として働き、結婚し、子どもが生まれ、長期ローンで家を買う・・。定年までは馬車馬のように働き、定年後は孫の相手をして、たまに旅行なんかして、そうこうしているうちに人生の終焉を迎える。世間ではこのような生き方を「良い人生」だとしている。

 

僕はどのような生き方をしても良いはずだと思っている。典型的な中流的な生き方も良いと思うし、世間的には眉を顰められるレールから外れた生き方でも良いと思う。

たとえ「決められた人生」のような型に嵌った生き方でも、本人がそれを幸せだと感じれば他人がどうこう言う筋合いのものではない。

要は当の本人の人生観や価値観に関わるものであるから、部外者はあれこれ口出しできないものである。

同様に自由に奔放にアウトロー的に生きても、こちらも当人の人生観に関わるものだから、他者は口を挟むべきではない。

 

僕は幼少の頃から「いい子」を演じていた。まあ、時には不登校をしたりして小さな爆発を起こしていたが、レールに乗った生き方をしてきた。

大学を卒業して地方公務員になったまでは良かったのだけれども、そこで「目覚めて」しまい、今のようになってしまった。

型どおりの「決められた人生」的なものに違和感を覚え、よせばいいのに「自由」を求めだしたのだ。世間のしがらみから離れたいと切に望むようになった。

 

もう今更、自分の生き方を変えようとは思わない。僕の価値観や人生観が間違っているとも思っていない。そもそも人が持つ価値観に正しいも間違いもない。

僕はこれからもずっと「決められた人生」的なものに抗っていきたい。

「自己決定」は本当に「自己」で決定しているのかという件〈再掲〉

僕たちは本当に自己決定をしているのだろうか。

「自己」で決定していると思い込んでいるだけではないだろうか。

自己決定を絶対視してはならない。

 

初出 2015/3/12

 

僕たちは何事かをなすときにすべては自分の判断で自分で決定していると思っている。

現代社会ではこの「自己決定」が正しいこととされている。

例えば福祉の領域。

介護保険法や障害者自立支援法によって高齢者や障害者の「自己決定」が尊重され、自分で好きなサービスを受けることができる建前となっている。従前の行政による措置制度では高齢者や障害者の意向よりも行政の意向が重視されていた。

現行制度の理念や趣旨は正しい。

しかし実際の運用は必ずしも理念通りにはなっていない。認知症の高齢者や知的障害者は判断能力が怪しいと見られ、家族やケアマネの意向が通ることが多々ある。

 

医療の領域でも、近年は「インフォームド・コンセント」が重視されている。病状や治療方法、病気そのものの説明を医師が行い、患者は自己決定によって治療法を選択することになっている。

しかし、医師と患者では病気に対する知識や情報量には雲泥の差がある。結局は医師任せになったり、医師の都合の良い治療法に誘導される危険性がある。

 

福祉の領域でも医療の領域でも、利用者や患者の自己決定に基づく処遇が必ずしもなされない虞がある。

 

そもそも「自己決定」が本当に絶対的に正しいものなのか疑問が残る。

ある人が「自己決定」によって物事を判断し実行すれば、その結果がどうであれすべては本人の責任だと突き放す口実になる。

例えばニートや引きこもりになった人たちに対して、自己決定の結果そうなったのだから、自分で何とかしろとなってしまう。

そう、タチの悪い自己責任論に通じてしまうのだ。

医師の誤った治療法を自己決定で選択したのだから、本人がすべて悪いということにもなりかねない。

 

人はすべてのことを「自己決定」できるほど賢明で強いものなのだろうか。

僕は違うと思っている。

周囲の空気や周囲の言葉に右往左往するのが現実の姿である。

このような「自己決定」を絶対視する態度は人間観が欠如していると思われてならない。

 

確かに僕たちは自分自身の力で行く道を選択しなければならない。

自分で判断する基準となる知識や情報を己の手で取得する必要がある。

時と場合によってはそれらはかなり酷なことになる。

時と場合によっては「自己決定」ができないこと、「自己決定」をすべきではないこともある。

 

僕たちは自己決定に潜む危険性をあらかじめ知っておく必要がある。

自己決定がすべて本当に自分だけの判断で決定しているのかを疑ってかかる態度を持たなければならない。

 

自己決定を絶対視することで他者の責任回避の免罪符となってはいないか、よくよく考えないと悪質な自己責任論と化してしまう。

  

「即戦力」なんかにならなくてもよい件

昨今は新卒者の採用においても「即戦力」を求める傾向にある。この場合の即戦力は会社の教育・研修を最小限に止めて、短期間で現場の戦力にするという意である。

 

大学や高校でも会社側のこの利己的な要望に応えようとあれこれ対策を講じている。

グローバル人材の育成を謳ったり、職業訓練的な内容の授業・講義を増やしたり、訳の分からないキャリア・デザインなんてものもある。

一時L型大学なんて議論もあった。

元々学校制度は国家に従順な人を多く生み出すために整えられたものである。今は会社社会に従順な人を生み出す、言い換えれば従順な労働者を生み出すシステムとして学校制度がある。こう考えれば大学や高校が目先の利益を追求して、会社が求める即戦力を養成する機関に堕しているのも頷ける。

 

大きな力に抵抗しない牙を抜かれたような状態にされた人たちが即戦力人材といえるかもしれない。

そんなに競って即戦力になる必要があるのか、僕は疑問に感じている。

あまりにも会社の論理に絡め取られているし、会社のエゴに踊らされている。会社の教育研修費削減のツケを払わされているに過ぎない。

 

様々な仕事をして職歴を積み重ねた結果としての即戦力化なら話は分かる。社会経験が乏しく仕事歴が浅い人たちにまで即戦力を求めるのはやはりおかしなことだ。

 

即戦力の人材とは会社にとって使い勝手の良い都合の良い人たちに他ならない。

会社にとっての基幹的な人材には即戦力を求めていない。多くの会社では基幹的な人材には教育研修だけでなく、念入りなジョブローテーションを行い、長期的に育成している。

かつてのこの国の会社では「幹部候補」として新卒者を雇い入れ、上述のような長期的な視点で育成していた。それが余裕がなくなり一部の幹部だけが対象となり、その他の社員を即戦力という名目で「安く」「使い易い」社員を生み出そうとしているのである。その究極の存在がパートや派遣等の非正規雇用の社員である。

 

ただ即戦力的な人材になるメリットもある。会社に過度にコミットメントしたくない生き方や働き方を志向する人たちは即戦力的な存在になればよい。自分のスキルを頼りに幾つもの会社を渡り歩くという働き方もできる。社畜化しない生き方や働き方を模索できるだろう。ただし、よほど気をつけないと使い勝手の良い社畜となるおそれもある。こうなったら目も当てられない。

 

世のサラリーマンは自分が「即戦力」の人材だと悦に入っていてはダメだ。巷でよく言われているように即戦力の賞味期間は短い。さりとて会社人間や社畜と化して、会社に自分の人生をコントロールされるのもいかがなものかと思う。

陳腐な表現となってしまうが、結局は仕事の能力とそれにプラスαの「人間力」という曖昧なスキルがものをいうことになる。

この「人間力」はいい加減で曖昧なものであるがゆえに、自分なりに形作ることができる、と考えると意外と先が見えてくるのだと思えてならない。

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